





マイケル・ジャクソンが亡くなり、ふと思い出したのがソウル・ミュージックの
パイオニア「オーチス・レディング」である。
わずか26歳の若さで逝った無念さは痛いほどわかる。
オーティス・レディング(Otis Redding, 1941年 - 1967年)はアメリカ合衆国ジョージア州
出身で、ソウル音楽に多大な影響を及ぼした歌手。激情を込めた独特の歌唱法だった。
自家用ジェット機事故により、26歳で死亡した。
1960年代初頭にジョニー・ジェンキンズのパイントッパーズで音楽活動を始め、
ソロ・シンガーに契約後1962年に「These Arms of Mine」を発表(R&Bのチャートで
最高位20位、Billboard Hot 100で85位と人気を評す)、この歌をきっかけに1964年
スタックス傘下のヴォルトからアルバム「Pain My Hart」を発表、アメリカ国内で
アトランティック・レコードのもとで全国流通を果たす。同年スティーヴ・クロッパー
(ブッカー・T&ザ・MG's)との「Mr. Pitiful」は(R&Bシングル・チャートで最高位41位、
Billboard Hot 100]で41位となる)ヒットを生み出した。生前のシングルレコードで最も
評判を呼んだのはジェリー・バトラーとの「I've Been Loving You Too Long」でR&Bの
シングル・チャートで2位を記録して彼のキャリアの中で最も高い評価を得る作品となり、
古いラブ・ソングをリサイクルした [Try a Little Tenderness」は1965年の代表曲となった。
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ハワイはオアフ島のカイルアに彼のハラウ(O KAWA:LI ULAZ)があった。
その名もChinky Mahoe(チンキー・マーホエ)である。
毎年のメリー・モナークでも、いつも彼の創りだすカネ・アウアナに、会場の観客は大喜び。
古い物にとらわれず、彼のスタイルを貫く軽快でコミカルなフラはいつも見る者を楽しませる。
フラとの出会いは22歳と遅めのチンキーだ。
彼のポリシーとは・・・
1976年12月に初めてアンクルと出会った。アンクルのフラの教室に行ったのが最初であった。
最初は彼のフラを見ているだけで、それをただマネをするだけの毎日であった。
アンクルのフラはなんと気ままなのかと感心したり驚いたりしたが、それがフラの大切なことだと
知ったと言う。つまりフラは型にはまったものはダメと言うことなのだ。
フラうを通して情熱や喜び、悲しみを伝える。
あなたのやることはフラにつながり、例えば水の入っているグラスを掴むときでもそこに
フラがある。すべてに感情があり、どんな身体の動きにも生命の輝きがある。つまり
フラにも生命があるのだ。また身体の動きには流れがある。それは徐々に学ぶものでは
なく、その時に学ぶのが基本。それは身体にあるライフスタイルがフラの感動を呼び起こ
したからなのだ。と・・・
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ハワイのクムフラKumu Ainsley K.Halemanu(クムフラ・エンズレィ・ハレマヌ)
ミュージシャンでもある。各ホテルのイベントに、クヒオビーチにとフラ指導を行っている。
日本に於て、唯一神戸にフラ教室を作りアロハを伝えている。
日本に来た時は必ず神戸に寄り、フラの指導をしていると言う。
高校時代、フラの神様、ハワイの人間国宝 ジョージ・ナオペにフラを習い始め、知識や
訓練を経て今に至る。クムフラ一流ミュージシャンであるエンズレィ・ハレヌマ氏はハワイを
代表するクムフラ。
また、メリーモナークに於いては27年間ハウスバンドとして活躍。世界中あらゆる所へ
アンクル(ジョージ・ナオペ)と一緒に活動している。
ワイキキ フラ ショー(クヒオビーチ)では、ハラウとして参加、パフォーマンスを見せている。
草花にも大変幅広い知識を持っており、今では、アンクルにとってもお互いに批判し合える
ような信頼関係をもった良き友達なのだ。
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ハワイの金持ちと言えばジミー・バフェットジミー・バフェット
(Jimmy Buffett, 1946年生まれ )をあげることが出来る。
アメリカ合衆国ミシシッピ州パスカグーラ出身の「アイランド・エスケーピズム」
ライフスタイルと音楽で最も有名な歌手、作曲家、作家、映画監督。
本名ジェームズ・ウィリアム・バフェット(James William Buffett)。
代表曲には"Margaritaville"、"Come Monday"、"Parrotheads"など。
彼のバンドはコーラル・リーファー・バンドとして知られる。 音楽面以外での経歴として、
ベストセラー作家であり、代表作である歌から名付けられた2つのレストラン、
「チーズバーガー・イン・パラダイス」と「マルガリータヴィル」が有名。ジミーバフェット
のマルガリータビルと名づけられたカフェ・レストランはラスベガスなどのアメリカやメキシコ、
カリブなどに多数、店舗展開。また、OSI Restaurantパートナー
(アウトバック・ステーキハウスの生みの親)とパラダイス・レストランのコンセプトのもと、
「チーズバーガー・イン・パラダイス」を共同開発。これはバフェット氏とライセンス契約中
でチェーンを運営している。 愛妻ジェーンとの間に2人の娘、サバンナ・ジェーンと
サラ・デレーニー、息子キャメロン・マーリーがいる。をあげることが出来る。
ミュージシャンでありながらマルチ才能を発揮、所得番付でもベスト10に入っている。
ウクレレ奏者のジェイク・シマブクロとも大の仲良しで2人でライブをやることも。
そしてこよなくハワイを愛してやまない。
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ハンドベル愛好者も地味ながら活動を続けている。
ここ白鴎大学ハンドベル・クワイアは今年で創立23年になる。
クラシックを中心に見ごたえのある演奏をすることで有名である。
それは栃木県小山市にあった。
1988年から音楽教育の一環として活動を開始してから、世界大会、
関東・全国フェスティバル、小中学校や地域イベント行事などを中心に様々な場所で
演奏活動を行っている。
毎年2月には定期演奏会とハワイ演奏旅行があると言う。楽器自体が手軽に持ち歩き
出来る為、どこでも演奏が出来るメリットがある。
現在の人員は発達科学部・教育学部の4年生3名、3年生6名、2年生7名、計16名
で活動している。ベルの音色のように、打てば響くチームを目指していると言う。
ハンドベルは約400年前イギリスで生まれた楽器で、ヨーロッパ、特にイギリスの教会
には、たいていその教会とも言うべきタワーベルがあり、3個から12個の音程の異なる
大きなベルがタワーにとりつけられている。
そのベルを下からロープを引いて回転させて鳴らせる仕組みになっている。
16世紀に「チェンジ・リング」といって、ベルを考案したのがハンドベルである。
正式にはイングリッシュハンドベルと呼ばれている。
ハンドベルは一つの曲について、十数名によってその一人ひとりが音程の違うベルを
2つから4つ担当し、手分けして演奏する。
楽器の中から自分の担当している音だけを拾い出し、全体のメロディーを明確にしながら、
1つのハーモニーを崩さないように注意しなければならないので、集中力とリズム感、
そして協調性が必要となってくる。




南米はボリビアに古くから伝わるリズム「サヤ」がある。
パーカッションを中心としたリズムをモチーフとしている。
「サヤ」とはスペイン人により連れてこられた黒人起源の音楽で、ランバダの原曲の
リズムだと言われている音楽なのだ。
ボリビアという国はアンデスの高地のイメージが強い国であるが、平地もかなりあり
普通の生活も行われている。
連れてこられた黒人たちは高地の暮らしには向いておらず、アマゾンやバジェなどで
暮らすようになり、特にユンガス地方では黒人たち独自の文化が生まれ育っていくこと
になった。
そうした黒人たちの中から生まれたのがこの「サヤ」と言う独特の音楽である。
アフリカにルーツを持つ黒人のリズム。ここボリビアで生まれても黒人たちの魂の中には
アフリカという大地が、そして、そのリズムが宿っているのだ。
それにしても、人種や民族によってその創り出す音楽が全く変わってしまう。
いくら土地が変わっても、世代が交代しても、リズムや感性というものは民族の血肉と
なって受け継がれていくものなのかもしれない。
この「サヤ」と言うリズムはそんな気持をわからせてくれる。
ここでその「サヤ」に使用する打楽器をご紹介しよう。
ギロ・・・SAYAには欠かせないパーカッション。
ボンボ・・・ALVAREZ・・・アンデス地方で広く使われている山羊の皮を毛のついたまま
なめさずに使った太鼓。
パロデリュビア (レインスティク)・・・「水の流れる音」「雨音」などの効果音として用いる。
マトラカ・・・モレナーダの曲には欠かせない、リズム楽器。
チャフチャス・・・合奏には欠かせないアイテム。山羊のひずめを束ねたもので、
乾いた音がする。爪数は40個前後。
マトラカ・レコレコ・・・マトラカとギロが一体となったアイデア楽器。
サヤもモレナーダも、コレひとつあれば出来る。



若手ポップス界で今人気急上昇中のシンガー「木村カエラ」がナウイ。
歌もうまく、感情も豊かで人の心をひきつける。
木村 カエラ(きむら かえら、1984年生まれの25歳 )は東京都足立区綾瀬出身の
女性ファッションモデル、歌手、タレント。本名:木村 カエラ(Kaela Kimura)
小6のときに原宿でカットモデルとしてスカウトされる。CUTiE(宝島社)の読者モデル
を経験後、ミスセブンティーン2001(集英社主催)に選出され、セブンティーン専属
モデルとなる。2003年、saku saku(tvk)でテレビ初登場。
母は日本人、父はイギリス人のハーフである。カエラ(Kaela)とはヘブライ語で「最愛」
の意味。
本人曰く「両親はそんな意味を知らず、語呂がいいからつけたんじゃないか」とのこと。
また、タモリ倶楽部に出演したときには、「イギリス人は、私の名前をカエルと発音して
しまう」と語った。英語は子どもの頃は喋れたが今は忘れて話せないとのこと。ただし、
後に「saku saku」内で名付け親が祖母であり、本当は「かえちゃん」と付けたかった
母親に対し、祖母が語尾に「ラ」を付けるようにと言った事が由来であると明かされて
いる(祖母の名前の語尾が「ラ」だったためにそう主張したとの事)。
趣味はギター、ピアノ、服作り。得意なスポーツは水泳。昔、神社で巫女のアルバイト
をしたことがある。また、高校時代から「animo」という名前のインディーズバンドを続けて
おり、2005年には「...of newtypes」というオムニバスCDにも参加していた。
これからのさらなる活躍が期待される。



ハワイには昔から伝わる楽器として「パフ」がある。
トラディショナルな太鼓「パフ」と言ってハワイでもパフ Pahu eith Puniu。
直訳すると「パフは神聖なしるしだ」となる。元々はタヒチから伝わったので、
背の高いドラムで人の背丈ほどのものもある。
両手をつかって演奏し、タヒチアン音楽のパワフルなリズムをかもし出してくれる。
ヤシの木をくりぬき牛の皮(昔はサメの皮が主流)を張って作る。
フラを踊る人は自分で作ると言うのがセオリーだ。
フラは女性が踊るもの、というイメージがあるが、 しかし最初にフラを踊ったのは、
女性ではなく男性であったという説がある。「フラ・パフ」はヘイアウ(神殿)での儀式的な
踊りで、太鼓のビートに合わせて踊るフラの原点。アリイ(首長階級)とカフナ(神官)
によって支配されていた古代のハワイにおいて、ヘイアウでの儀式は彼らが崇拝する
神とコミュニケーションをとるために大変重要なことでした。神殿での宗教的儀式は
男性のみが参加できたことを考えると、フラは当初男性が踊るものとして始まった、
と考えるのが自然だ。




世界各国にはいろいろのマッサージがある。
日本でちょっとしたブームなのがハワイの「ロミロミ」である。
若い人がハワイに渡り修行を積んで開業するパターンである。
ロミロミ (Lomi Lomi) とは、古代ハワイアンが医療として行っていた伝統的な癒しの方法。
「ロミ」とはハワイ語で「もむ、押す、圧迫する」や「マッサージする(英訳)]という意味。
もともとは医療行為として発達したが、現在はリラクゼーションマッサージのひとつに数え
られている。ハワイに一般日本人が簡単に行けるようになってから(1970年代以降)、
その存在が知られる事となるハワイで何世代にもわたって行われてきた伝統のハワイ式
マッサージ。特徴は肘や前腕、手のひら、指先を使って流れるような気持ちのよい刺激を
与えること。オイルマッサージの一種といわれている。
現在では単なるマッサージから「癒し」に重点が移っていると言われている。
特徴は始める前に必ず「オリ(祈り)」を唱えるのがセオリーとなっている。



1970年東京生まれ、初めてのハワイ旅行でフラと出会い感動、25歳からフラを
習い始める。
1996年ハワイより来日していたフラ・ハラウ・オ・カムエラ(フラスタジオ・カムエラ)
と今は亡きクムフラ・パルカ・マトスに出会い、その実力を認められる。
それを機に1999年師の門下生となる為、単身ハワイへ。
3ヶ月後にはハワイの人でさえ出場が難しいといわれるフラ界のワールドカップ
「メリーモナーク・フラフェスタ」の選抜チームのマンバーに抜擢される。
2000年~2003年の4年間大会に出場、4年連続優勝と言う前代未聞の記録を
樹立させた。
2002年恩師の他界を機にハワイにH-POWERを設立、フラ監修、セミナー、イベント
などを手がける。
女優の上戸 彩へのフラ指導もしている。
現在カリフォルニアに在住、一児の母でもある。




今年もハワイはヒロで行われたメリーモナーク・フラフェスタも無事終了した。
ここで忘れてならないのが長年MC(Master of Ceremonies・・・司会)を担当
してきたPENNY嬢である。
彼女は創設期から担当してきて今、その思いを語っている。
「私が最初に見たメリーモナークは小さなフェスティバルでした。
建物も小さなもので高校のバスケットチームが試合をする
ヒロ・パシフィック・オーデトリアムでした。ステージもなく、床の上で
地元のハラウが5~6人踊っている程度でした。
そこはビールなどを置いているビアガーデンでした。そこでフラを見たのです。
それから2~3年後のことですが、コンテストが始まりました。
カヒコ、アウアナそれぞれのコンテストが行われクラフト・フェアも始まりました。
そのうちアーチストも来るようになり、年々規模も大きくなり、競う合うイベントも
増えました。そしてその時点からミス・アロハフラも出来たのです。
当初は2~3日であったのが今では1週間に伸びたのです。
今年で45回、これから巨大化して、はてさてどうなることやらです」。



ハワイのクラフトにもいろいろあるが、ニーハウ島で採れたニーハウシェルの
クラフトはフラファンなら誰でもあこがれる逸品でもある。
ニーハウ島はハワイ8島のうちの一つで大きさは日本の奄美大島の約3分の1の大きさだ。
ここでしか採れない貝がニーハウシェルなのだ。
ニーハウ島で唯一王家からニーハウシェルを作ることを許された家系の継承者の
血筋を引く娘が作る貴重で珍しいデザインのニーハウシェルの数々!
カウアイ島の隣りにあるニーハウ島だけで採れる貝で、限られた人しか採ることが
出来ない貴重な貝なのだ。
これつけてるとロコガールびっくり、$500~$2000くらいはする。
最近は採れる数も少なく、作っている人も少ないと聞く。
貴重なニーハウシェルなのだ。






国際舞台で活躍している日本人は多いが今回登場する日本人もその一人である。
龝(穐)吉 敏子(あきよし としこ、Toshiko Akiyoshi、1929年生まれの76歳 )は、
ニューヨーク在住の日本人ジャズピアニスト、作曲家、編曲家、ビッグ・バンドリーダー。
氏名を表記する際には、フォント上の制約から、正字(いわゆる「旧字体」ないし
「康煕字典体」)と呼ばれる「龝」ないし「穐」 を、当用漢字(いわゆる「新字体」ないし
「略字体」)の「秋」に替えて、「秋吉敏子」と表記することも多い。
彼女は中国東北部(満州)の遼陽に生まれ、ピアノを習うために大連に移り、
大連音楽学校で中国人の楊孝毅にピアノを習う。
1967年に現在の夫でありフルート、テナーサックス奏者のルー・タバキンと出会い、
1969年結婚。娘「満ちる」を授かる。
1974年、ジャズと日本古来の和楽を融合した『孤軍』を発表する。1982年には
ニューヨークへ戻り、1983年に秋吉敏子ジャズオーケストラ
フィーチャリング ルー・タバキンを結成、自らの作編曲で通算30年にわたって活動を続け
世界的に名声を馳せた。
米・国立芸術基金[NEA]ジャズマスター章受賞!!世界のJAZZアーティスト“秋吉敏子”が
デビュー60年、そして76歳にしてナント!初のシングル盤をリリース!!
平和への祈りを込めて、新たなるスタンダードナンバーの誕生。
秋吉敏子の愛娘でありシンガーでもある“Monday 満ちる”も活躍中!




ハワイのクラフトは一流の職人から成り立っている。
代々続く家系から生み出されているのだ。
従って彼らは誇りを持って製作している。
ハワイを代表する「ラウハラ帽子」もそのひとつと言えるだろう。
ハワイで人気の「ラウハラ」は、ハラ(hala)という植物の葉をラウ(lau)編んだ、という意味。
バスケットやランチョンマットなどに加工されることが多いので有名。
長~い葉っぱを干して乾燥させたものを水につけたり、まわりのトゲトゲをとったり
手間をかけて編んでいったものがラウハラの製品になる。
ハラの木は日本では「タコの木」とか「パンダナス」で知られる。
パイナップルのような実がなるがそれを「フアハラ」と言う。
カットしてレイにしたり、昔は乾燥したものを筆代わりに使ったようである。
そのハラの木に咲くお花がヒーナノ、どこにも咲いているわけではなくよ~く探さないと
出会えないと言うのだ。
バニラ色をしたそのお花は大きいもので人間の腕くらいの長さはある。
その花びらをやさしくめくってはがし、レイに編んだり、ヘアピースに入れたりするわけで
あるがすぐに茶色にアザができたように変色してしまう。
昔このヒーナノだけで編んだスペシャルなマットをアリ‘イのために献上したようだ。
ヒーナノの花粉はその高貴な魅力的な香りからアリ‘イたちの夜の楽しみにも
使われたそうであるが、気をつけないと花粉を触ると妊娠しちゃうという説もある。
但し男性は大丈夫とのことです。
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今年も6日(土)・7日(日)の2日間、長野市中央通りを中心に門前ジャズストリート
が開催された。
天気も快晴に恵まれ暑いくらいであった。
ここメインのトイーゴ広場では有名なジャズバンドが次々と演奏を披露、時間のたつのも
忘れるほどであった。
写真は上から・・・
・音楽プロデューサーの武田徹氏。元SBCアナウンサー、早稲田大学ではジャズバンド
でドラムを叩いていた。今回の総合プロデュースを担当。
・ザ・ビックバンド・オブ・ミュージックトイズ
・北沢マロ with リズムオーケストラ
・北沢マロ(長野在住のパーカッション奏者)
・Rhythm Jokers(緑川音楽事務所所属)
・SBCテレビ牛山アナウンサー(飛び入りインタビュー)
・蓼科高校ジャズクラブ(映画スィングガールのモデルになった)
・角田忠雄カルテット with 塩入規予
・早稲田大学ニューオルリンズジャズクラブ
・満員のお客様
これ以外にも場所をかえて多数が出演しました。
初夏の迫力あるライブでした。



長野市は中央通りのかるかや堂並びにその店はあった。
「マウンティンQ]と言うハワイアン料理専門店である。
早速「ロコモコ」を注文する。800円である。
つまり日本の丼と思えばいい。
ライスの上に特製のハンバーグが載っていて目玉焼がついている。
特製のグレービーソースがたっぷりかかっていて、なかなかいけるかなって
感じである。
またドリンクについては特殊なストローがついてくる。
これは泉が湧き出る感じになると言う。実際にそんな気分にしてくれるから
摩訶不思議だ。
この「ロコモコ」の由来について調べてみた。
ロコモコのルーツは完全には明らかになっていない。ハワイ大学のジェームズ・ケリー
教授の研究によれば、これは1949年にハワイ島のヒロで小さなレストランを営んで
いた日系人のイノウエ夫人によって発案されたとしている。日本の伝統的な流儀で、
白米をよそった丼にハンバーグを載せ、自家製のグレービーをたっぷりとかけて若者
向けの安価な食事として出したというのである。
"Loco" とはイカレた奴.。また、"moko" にはハワイ語で入り乱れる、混ざるという
意味があるが、料理の名前そのものにさほど意味はなく、単に語呂がよかったので
定着したという説が有力だ。
ロコモコは今ではハワイにおいて非常にポピュラーな料理となっている。
テーマ:こんな店に行ってきました - ジャンル:グルメ




南米はチリ、毎年9月18日の独立記念日には必ず踊ると言われる「クエカ」なる
民族舞踊がある。クエカは鶏の求愛行動を真似た踊りで、男女ペアになり、
白いハンカチを振りながら可愛らしく逃げる素振りを見せる女性を男性が追いかける
踊りなのだ。3曲続けて踊り、曲数が進むごとに男女の距離が縮まっていくのが情熱的
なラテンの雰囲気をよく表していると言われる。
衣装はフリルのいっぱい付いたカラフルな花柄のドレスを着た女性たちが集う。
開会式は土曜日の午後6時半に始まり、各区長のスピーチの後、区長を始めとするVIPが
クエカを踊り、それに続いて皆が一斉に踊り出す。この時期、チリのVIPは大統領以下、
必ずどこかでクエカを踊ることになっているのだ。
もともとクエカは文化から進化したもので生活そのものなのだ。
一度見てみたいと思っている。






ペルーの音楽と言えばフォルクローレだけと思っていたが、実はいろいろな
音楽があることがわかった。
ここに紹介する黒人の歌手スサナ・バカはひいおじいさんがアフリカから連れて
こられた奴隷であったと言うこと。
ここにもアフリカを感じさせる音楽が流れている。しかもヨーロッパさえ感じさせる
から不思議だ。
スサナ・バカ(Susana Baca)
ラテン・グラミー賞を取ることで一躍有名になったペルーのアフロ歌手。
ペルーの黒人ルーツを探る作品などを積極的に発表したかと思えば、ジャズや
ペルー以外の音楽を発表するなどユニバーサルに活動している。
ペルーではインテリ層に好まれるが、庶民の間では知名度はない。洗練された
黒人音楽として、また時に実験的な古い音楽の復興としてのさまざまな試みは興味深い。
スサーナ・バカは1944年、リマ郊外の海岸沿いに位置する小さな街チョリージョス生まれ。
そこはかつてのスペイン統治時代、アフリカから連れてこられた奴隷達が住まう地であり、
幼い頃から自然にアフリカのリズムに包まれて育った。
90年代にロック界の奇才デビッド・バーンに見出されて以来、世界的に注目される女性
歌手となったのだ。
作品は89年に発売されたレコード“POESIA Y CANTO NEGRO”をイギリスの
TUMIレーベルがCD化したもので、ラテン・アメリカの偉大な詩人の作品をアフロ・ペルー
のリズムに合わせて晩年のチャブーカ・グランダが惚れ込んだというクールかつ艶やかな
歌声で歌い上げている。2002年ラテン・グラミー賞ベスト・フォーク・アルバム部門
グランプリ受賞している。





紆余曲折はあったものの、40歳になって再結成されたロックバンド
「筋肉少女帯」が久し振りのステージを見た。
昔の元気そのもので、しかも独特のメイクとパフォーマンスは相変わらずである。
筋肉少女帯(きんにくしょうじょたい)は、1980年代後半から1990年代後半に
かけて活躍し、2006年に活動を本格再開した日本のロックバンド。
通称は「筋少」(きんしょう)で、アルファベットでは「King-Show」
(初期は「KIN-SHOW」)と記す。
1979年に当時中学生だった大槻ケンヂと内田雄一郎が組んだバンド「ザ・ドテチンズ」
(別名ドンズ。当時の大槻のあだ名より命名)が始まり。大槻は健康青竹踏みを打ち鳴らし、
内田はエレクトーンを掻き鳴らした。
様々なメンバーが加入と脱退を繰り返す中で活動を続け1988年、トイズファクトリー
よりアルバム『仏陀L』・シングル『釈迦』でメジャーデビュー (第18期メンバー) 。
しかし、その後もメンバーが定着することはなく、半年後に発売された2ndアルバムは
21期メンバーで録音された。
現在のメンバーは・・・
・大槻ケンヂ(おおつき けんぢ、1966年)ボーカル
・内田雄一郎(うちだ ゆういちろう、1966年)ベース
・本城聡章(ほんじょう としあき、1965年)ギター
・橘高文彦(きつたか ふみひこ、1965)ギター




ハワイアンに関しては日本ではポピュラーであるが、意外と知られていないのが
ジャワイアンである。
それは日本人にとって身近な存在であるハワイがかなりのレゲエ・アイランドである
という事。
ハワイでは一歩足を踏み出せば、ロコの人達が集まるスーパー、レストラン、
ショッピング・モール等のBGMから、街角を走る車のカー・ステレオ、ビーチ・パークで
バーベキューをするファミリーのラジカセに至るまで多くの場面でレゲエが流れて
いるのだ。つまりジャワイアンとはジャマイカのリズムとハワイアンが一体化したもので
派手さはないが根強くファンも多いのも事実だ。
一時期ジャワイアンとは「日本のハワイアン?」などと思っている人もいたようであるが、
それは間違いである。
さらにハワイのラジオにスイッチを入れてみれば多くのFM局が一日中レゲエ・ナンバーを
エア・プレイしていることも理解出来る。
本場ジャマイカのレゲエからウクレレ・レゲエへ、
そして、ロコのミュージシャンがプレイするハワイアン・レゲエ=ジャワイアン。
そんな中からお薦めしたいのが小林克也プロデュースによる
「ジャワイアン・ミュージック」である。美しいしいハーモニーと爽やかなレゲエ・リズムが
溶け合うサウンドに、軽やかなウクレレの音色が彩りを添えてくれます。
さて、ジャワイアン再度復活なるか注目すべきでもある。
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ジャマイカのリズムは大きく分けて3段階で変遷してきた。
1960年代初頭にジャズの影響を受けてスカが発達し、その後ロックステディ、
ルーツ・ロックと変遷を経て1970年代初頭にレゲエになった。
その後ダブやダンスホール・レゲエ、ラガマフィンなどの音楽ジャンルが生まれて
いるように、ジャマイカは小国だが、1950年代以降の世界のポピュラー音楽に
対して大きな影響を与えている。
レゲエ (reggae) は、1960年代後半ジャマイカで成立したポピュラー音楽。
一般的には4分の4拍子の第2、第4拍目でオフビートを刻む、「スキャンク」などと
称されるギター、「ワンドロップ」と称される各小節の3拍目にアクセントが置かれる
ドラム、ベースによるうねるようなベースラインなどの音楽的特徴によって定義付け
られる。
直接的には同じくジャマイカのポピュラー音楽であるスカやロックステディから発展
したが、ジャマイカの伝統音楽であるメント、アメリカ合衆国発祥の黒人音楽である
リズムアンドブルース、トリニダード・トバゴ発祥のポピュラー音楽カリプソ、
ラスタファリアンの音楽であるナイヤビンギ、コンゴ発祥の音楽クミナ、さらにはマーチ
など多様な音楽の影響を受け成立した。
また、ボブ・マーリーは「レゲエ」は「王の音楽」を意味するスペイン語であると主張して
いたとされる。 さらに、2003年に発表されたゴスペル・レゲエのコンピレーション
『トゥ・ザ・キング (To the King)』のライナー・ノーツには「レゲエ」という言葉は
「王のために (to the king)」を意味するラテン語、「regis」に由来するという説が記載
されている。





ジャマイカはカリブ海に浮かぶ小さな島であるが1960年にイギリスから独立、
人口270万人で現在いろいろな面で発展しつつある。
音楽の分野でもリズムも独特で話題にはことかかない。
ハリー・ベラフォンテが歌ってヒットした「バナナボート」はここを舞台にしたもので
ある。
そんな中でも「レゲェ」と言うリズムはジャマイカを代表する音楽となっている。
それを歌った「ボブ・マーリー」はジャマイカを代表するミュージシャンと言って
良い。
ボブ・マーリー(Bob Marley、1945年 - 1981年脳腫瘍の為36歳で死去。
本名ロバート・ネスタ・マーリー Robert Nesta Marley)は、
ジャマイカのレゲエミュージシャン。その音楽はラスタファリアニズムの思想を背景
としており、彼の音楽・思想は(音楽制作者のみならず)数多くの人々に多大な
影響を与えている。
愛用のギターはボディとネックに1ピースマホガニー、指板はローズウッドを使用し、
ピックアップP-90を2基搭載したギブソンのLes Paul Specialであった。
「レゲェ」については次回としたい。
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今年のGWは初孫のお宮詣りなどで満足な旅行も出来なかったので、
以前から行きたいと思っていた山梨県は甲府にあるミュージアムへ足を
のばした。1000円乗り放題の高速道も魅力だ。
3時間弱で目的地へ着いた。
山梨県立美術館である。広い敷地に緑が生い茂り環境は抜群だ。
日本ではここでしか鑑賞することの出来ないミレーの作品が2点ある。
「落ち穂拾い」「種をまく人」である。
これは偶然がかさなりオークションで運よく入手出来たと言う。
実際に見るとかなり小さい作品ではあるが迫力は充分である。
これに併設されている山梨県立文学館には「太宰 治」展が生誕100年
を記念して開催されていた。この他日本の有名文学人物の紹介も多数ある。
ここから近くにある「昇仙峡」へ足を伸ばした。
昔行った記憶はあるもののすっかり忘れていた。
亀石、オットセイ石など珍しい自然のものがいっぱいだ。
もちろん名物「ほうとう」を食べたことは言うまでもない。
久し振りにリフレッシュした感じであった。
テーマ:国内、史跡・名勝巡り - ジャンル:旅行
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