



癒しの島といわれているハワイで、気持ちのよいヨガが今静かなビームだ。
ハワイの自然のエネルギーを取り入れたのがセーリングポイントとなっている。
従来のヨガは室内で床の上でやるのが一般的であるがビーチの上でヨガをやることに
よって地面が動き全体にそのことが良い影響を与える。
また自然との協調が重視され今までにないヨガ体験ふができる。
Dennis.B.Miller(デニス・B・ミラー)が主催するこのスタジオでは、長年に渡る、
ハタ・ヨガと舞踏ダンサー、マッサージセラピストとしての経験に基づいたユニーク
なヨガを実践している。楽しみながら、自分の身体の深層部に眠る可能性を引き出す
ことが、デニスのヨガの目的だと言う。
デトックス効果やダイエット効果も高く、健康な体作りにデニスは、丁寧に一つ一つ
の動作を指導して、素晴らしいバランス感覚を育ててくれると評判だ。
クラスはその日の参加者のレベルに合わせて進められる。初めてだから、身体が硬いから、
と言う心配は無用のようだ。ハワイまで来た体力があれば大丈夫。またワイキキヨガは
日本語で行われている。予約なしでご参加出来ると言う!
ビーチヨガ、公園ヨガともに開始時間の5分前にクヒオ通りにあるワイキキトレード
センター2階のスタジオ前に集合する。



ハワイ通なら必ず食べたことのある揚げパン「マラサダ」。
中には日本で移動販売までやってしまった人もいるくらいである。
マラサダ(Malasada)はポルトガルの菓子。アゾレス諸島のサンミゲル島で作られた。
マラサダは、卵大のイースト菌で発酵させたパン生地を油で揚げ、グラニュー糖をまぶして
作られる。手で掴んで油に入れる時に何の形に見えるか言い合う遊びがしばしば行われる。
伝統的なマラサダには穴も具もないが、クリーム等の具を詰めたものもある。また、
もともとマラサダを作るのは、四旬節の間は禁じられるラードや砂糖を使い切ることが目的
だった。「灰の水曜日」の前日に当たるマルディグラ(火曜日)の日によく食べられる。
1個0.7ドルが相場である。








マリアッチ (Mariachi)は、メキシコを代表する楽団の様式である。しばしば
「マリアッチス (mariachis)」と複数形で表現される事もある(王立スペイン語
アカデミーなど)が、演奏者のグループをひとまとまりのものとして考えているため、
単数形の「マリアッチ」と呼ぶのが正確な用法である。マリアッチによる音楽は、
メキシコでは祭り、宴会、記念日、卒業記念などの時に親しまれている。また、
母の日(5月10日)や聖グアダルーペの日(12月12日)などに、愛する人へ
送るセレナータにも用いられる。
マリアッチは7ないし12名で編成される楽団である(ただし、人数に上限は無い)。
ビウエラ、ギター、ギタロン、バイオリン、トランペットは欠かせない楽器とされ、
これらにフルートやアルパが加わる事もある。アコーディオンは本来マリアッチに
使われる楽器ではないが、メキシコ以外ではしばしば用いられている。
1曲200ペソ(約1.400円)が相場だと言う。
マリアッチは音楽の種類を指すものではない。マリアッチの楽団は様々な種類の音楽を
演奏する。ソン・ハリシエンス、カンシオン・ランチェラ、コリード、ウアパンゴ、
ボレロなどが主で、時折ハロチョ・ソンやメキシコ・ワルツも演奏される。これらの
音楽に種類名をつけるとすれば、「メキシコ伝統曲」か「メキシコ地方曲」となるで
あろう。








琵琶は中国語で「pipa」と言う。昔はバチを使って演奏していたたが、
その演奏方法と出る音から‘琵琶’という名前ができたといわれている。
つまり、外側を向いて弾く動作を‘琵’と言い、内側を向いて弾くのを‘琶’と言う。
そういう演奏法で弾く楽器が全て琵琶と呼ばれていたのだ。つまり「琵琶」
は全ての撥弦楽器の総称だったのだ。
紀元前3世紀頃の中国は、<秦>の時代で、始皇帝によって有名な「万里の長城」
が建築されていた。長城を作るために各地から集められた人々は、その仕事の
休憩の間に、元々手で敲く鼓に弦を付けて、弾いていたのだ。これが中国の最古の
琵琶と言われている。後世の人々はこれを<秦琵琶>と呼んだ。
その後、いろいろな形の琵琶が作られるようになり、胴体の部分は円形のと梨形のがある。
また、棹の部分はまっすぐのと曲がっているのもある。弦は、四弦のものが多いようで
あるが、五弦や、ごくまれに三弦の場合もある。このいずれも琵琶と呼ばれていた。
琵琶は果物のビワの形に似ているから、そう呼ばれるという人もいるが、これはあくまでも
俗説であまり信用できないと言う。
更に、4世紀頃になると、インドから今の琵琶に似た楽器が中国に伝わってきた。梨形胴で、
棹が曲がっていて、4弦で、バチで弾く楽器。それからこの楽器だけが琵琶と呼ばれる
ようになったと言う。
中国では、小さい頃からみんななにかひとつ楽器を習っている。シャオ・ロンはもともとピアノ
を習っていたので、実は琵琶を始めたのは遅いほうで、8歳から始めたと言う。13歳で今は
国立北京中央音楽大学となっている学校に入り、中学、高校、大学と学び、卒業後、上海の民族楽団
に入団。北京中央音楽大学には世界のトップ・アーティストが教えに来ていた。
これからは中国から出て、西洋音楽も勉強したら、もっと発展していくかなと思い、日本の東京
芸術大学を目指した。しかし芸大には琵琶の専門の先生はいなく、結局楽理科に入った。楽理科に
入って音楽活動を始めたら、いろいろな人と演奏して、中国にいたらできないことが出来たとも言う。
中国では現代音楽、古典音楽楽団だと民族音楽しかできなかった。
日本に来たらピアノとギターと琵琶といった洋楽器と合奏する機会が多くて。こういった、
洋楽器とのコラボレーションはまだ中国では出来ていない部分なのだ。
琵琶には4本のスチール弦があって、フレットがいっぱいあって….表現の幅がすごく広い。
激しい部分とすごく豊かで優しい部分の両方が表現できて、中国民族楽器の中でいちばん表現力
がある楽器。ソロ楽器にもなるし、伴奏楽器にもなる。
最近ジャズ゙も始めたと言う。







浅利 慶太(あさり けいた、1933年生まれの77歳)は、東京都出身の演出家、
劇団四季創設者の一人で芸術総監督。劇団の運営・管理に当たる四季株式会社の代表
取締役会長でもある。2009年4月1日をもって、ふたたび同社の代表取締役社長
の任に就くこととなった。慶應義塾高等学校卒業、慶應義塾大学文学部仏文学専攻中退。
中曽根康弘のブレーンとしても知られていた。
1970年代から海外ミュージカルの翻訳上演を始め、莫大な集客・集金力により、劇団四季
を大劇団へと成長させる。興行面においては1983年『キャッツ』初演において日本で
初めて無期限ロングラン公演を成功させた。
ワンマン経営家としても有名であり、独断で演出、配役、台本をほぼ行っており、
彼の後継者がいないのが現状である。
現在全国の9ケ所に専用劇場がある。
観客動員は年間約300万人。団員は約700人いる。
団員の収入も比較的高く、それなりに待遇は良くしている。
それが結果的に効果として表れているからだ。
主役の年収は1.130万円、準主役は470万円。
入団時1年間は無休。2年目は月額10万円、3年目20万円、
それ以降25万円となっている。
劇団の教訓は
・一音おとす者は去れ。
・慣れ、ダレ、崩れは去れ。
徹底したローコストで運営しているが、金のかける所はかけている。実に合理的だ。
オーデションでは30人採用に1300人以上が来ると言う。
音大生やら音楽教師などそれなりに社会的地位のある人も多い。






ハワイはアオフ島で日系人の「チャイナ・ウエムラ」が新しい感覚のスポーツ
「スタンドアップ・パドルボーディング」の普及に奔走している。
ではそのスポーツとは、ボードとパドルを使った新感覚の水上レジャーである。
スタンドアップ・パドルボーディングは、パドルとボードを使った21世紀の遊びの
最も進化したスタイルと言われている。平水面でのアクティブなスポーツで、
10歳程度の子供から60歳以上の大人まで、誰もが取り組める。
サーフボードだから、波乗りができ、シーカヤックやカヌーのように漕いで楽しく、
またリグをセットすればセイリングもできる、これからのレジャースポーツと言える。
昨年度、このサーフ大会はハワイのタウンLEGENDとして有名なチャイナ・ウエムラが
ボランティアを目的に夏のワイキキを舞台に開催する世界最大のロングボード・コンテスト
の一部として開催された。昨年ハワイで開催したJPSAコンテストをさらにスケールアップ。
日本のトッププロ(2005年度ランキング)と、チャイナコンテストのトッププロ16名
(=過去1年間のハワイでの実績)の計32名による、夢のロングボードコンテストを真夏の
シーズン真っ只中のクイーンズで開催!










舘野 泉(たての いずみ、1936年生まれの73歳)は、東京生まれのピアニスト。
父は武蔵野音楽学校出身。母は明治維新まで7代にわたって仙台藩の能楽を司って
いた家系の出。戦災を避けて栃木県間中に一家で疎開し、そこで敗戦を迎える。
慶應義塾普通部から慶應義塾高等学校を経て東京藝術大学卒業。
1964年よりヘルシンキに在住し、シベリウスをはじめ、マデトヤ、ラウタヴァーラ、
カスキ、メラルティン、コッコネン、ノルドグレンなど、フィンランドの近現代作曲家
の作品に取り組み続けている。日本シベリウス協会会長。
また、若い頃からセヴラックに惹かれ、自身のレパートリーに組み入れている。
2002年には日本セヴラック協会を作り、顧問を務めている。
1968年、メシアン・コンクールで第2位。同年より国立シベリウス・アカデミーの
教授を務めたが、1981年以来フィンランド政府より芸術家年金を与えられ、以降教職を
退いて演奏活動に専念している。
2002年、フィンランド・タンペレでのリサイタル中に脳溢血で倒れ、その後遺症と
して右半身に麻痺が残る。リハビリを経ても右手が不自由のままであったが、2003
年8月のオウルンサロ音楽祭で復帰を果たす。その中でスクリャービンやリパッティによる、
左手のためのピアノ作品を演奏した。それをきっかけに、本格的にこの分野を開拓して
いこうと決意。翌年には日本で、左手のピアノ作品によるリサイタルを開き、マスコミにも
大きくとりあげられた。以後、演奏会、録音ならびに新作委嘱などを通して、左手ピアノ曲
の普及につとめている。
妻のマリア・ホロパイネンはフィンランド人でソプラノ歌手。息子のヤンネ舘野はヴァイオ
リニスト。弟の舘野英司はチェリスト。妹の鍋島晶子はヴァイオリニスト。晶子の長女の
鍋島真理は音楽学者。





牌鬼屋(パイオノア)さんからロシータ・花田が歌う動画(You Tube)
を頂きました。
彼女の歌を初めて聞きましたが、声量もあり歌い方もうまい。さすが元ヅカガール
である。
この中で光ったのは「宝石」である。まさしく「日本のハワイアン」にぴったりである。
我々がこの曲をカバーすることで彼女も天国で喜んでくれると思う。
3拍子なので4拍子にかえたリズムでないとフラが踊りにくいと思う。
早速譜面作りに取り掛かりたいと思う。
この他彼女は「エストレリータ」「小雨降る径」「ムーランルージュ」などの名曲を
カバーしている。
さて皆さんはどんな感想をお持ちですか?メッセージをお待ち致しております。
宝 石
宝石あなたの指を 飾りましょう
ばらの花より 紅いルビー
朝の光に 輝いて
あなたは唄う 愛の歌
あなたの胸を 飾りましょう
海に生まれた 真珠貝
波打つ胸に ゆれながら
せつなく喘ぐ 恋の歌
あなたの耳を 飾りましょう
海より青い サファイアを
月の光に ぬれながら
波はささやく 愛の歌
作詞:別所直樹
作曲:ビセンテイ・高森
宝石
私は星のカルメン
ブンガ・ビンタン(星に花)



情念のこもった独特の歌唱スタイルで知られる歌手の浅川マキ(あさかわ・まき)
さんが死去した。67歳だった。公演のため滞在していた名古屋市のホテルで倒れて
いるのが17日夜、見つかった。愛知県警中署によると、死因は急性心不全とみられ
るという。
石川県出身。キャバレーや米軍キャンプで黒人霊歌を歌い、1968年に故寺山修司
さん演出によるひとり舞台に出演。70年に「かもめ」「夜が明けたら」などを収録
したアルバム「浅川マキの世界」を発表した。
寺山さん、北山修さんらが詞を提供した曲だけでなく、ビリー・ホリデーの曲など自身
による作詞・訳詞も高い文学性が支持された。アンダーグラウンドを中心に活躍し、
山下洋輔さん、坂田明さん、坂本龍一さんら多くのミュージシャンと共演した。
85年に網膜剥離(はくり)で一時活動を中断したが、東京の新宿ピットインなどで
積極的にライブを行っていた。15、16日にも名古屋市のライブハウスでピアニスト
の渋谷毅さんらと公演。最終日の17日に姿を見せなかったことから関係者がホテルを訪ね、
浴室に倒れているのを見つけた。
ご冥福をお祈り申し上げます。

















タヒチ島(Tahiti)は南太平洋フランス領ポリネシアに属するソシエテ諸島東部
にある島。首都はパペーテ。面積1.048 km²、人口約17万人(2002年推計)。
南太平洋有数のリゾート地として知られる。冒険家ヘイエルダールの逸話や、
画家ゴーギャンが晩年移り住んだ島としても有名。
古くは古代ポリネシア人がハワイへ移住したことでも知られている。
タヒチ島は大きい方のタヒチ・ヌイと小さい方のタヒチ・イティの2島で結成している、
ひょうたんのような形をした島である。バニラの産地としても有名である。
火山性の山がちな島で、最高峰が標高2.241 mにも及ぶオロへナ山。島の周囲には
サンゴ礁が取り巻き、火山性特有の黒い砂浜が多いのが特徴である。
毎年6月初旬から7月下旬まで2ケ月にわたり「ヘイバ・イ・タヒチ」が夜7時から開催
される。
ポリネシア最大のお祭りでタヒチアンダンスと歌のコンテストである。
会場のパペーテにあるトアタ・スタジアムで50人から200人のダンサーで行われる。
他にもカヌーレース、各種スポーツなども開催される。
入場料は1500~4000フランで日本人にも好評で毎年かなりの人が訪れると言う。










農民オーケストラ構想は、現在代表の牧野時夫が農学生時代から暖めていたものであるが、
1994年8月余市で開催された日本農業研究会北海道グループ学習会において、オーケス
トラで演奏したくてうずうずしていた脱サラ農民3名の酒席での話がとんとん拍子に進み、
翌年1月の「田園交響曲」演奏会へと開花した。以降年々仲間を増やしながら、
毎冬1回の道内各地での公演を続けている。農業が土を耕す行為であれば、音楽は心を耕す
行為である。宮澤賢治が『農民芸術概論綱要』で述べた理想に基き、彼が果たしえなかった
農民オーケストラを現代に蘇らせる試みでもあり、真の芸術とは何かを追求する志高い楽団である。
所在地: 〒046-0002 北海道余市郡余市町登町1178 えこふぁーむ内
設立: 1995年1月15日(旗揚げ公演)
代表: 牧野 時夫 (指揮、ヴァイオリン、作曲)>>>写真(第11回函館公演)
主旨: 北海道在住の農家、および農業関係の仕事に携わる音楽愛好家が、農閑期に一堂に会して
演奏会を行うことにより、自らの研鑚と地域文化の発展に寄与することを目的とする。農村文化の
担い手との交流を図るとともに、都市住民に農村と農業についての理解を深めてもらう一助としても、
積極的に各地での公演を行う。
団員の資格: 農家、非農家に関わらず当団の主旨に賛同して協力を惜しまない者であれば、
誰でも参加できる。
現在団員数: 62名(道内全域の農家、農協職員、農業試験場研究員、道農政部職員、
農学関係学生教員など)



フラチームから「ヘポラニ・マカマエ」を踊るので演奏頼むと言う依頼があった。
テープを聞いた限りでは比較的単純なメロディで演奏しやすいメジャーな曲でもある。
いろいろ調べてみると「大切な夜」と言う意味らしい。
さて誰に歌ってもらうかが悩みのタネでもある。
歌詞は次のようなものだ。
Mala`e mai `o Waima
Ku kilakila na pali
Moe malie ka `aina
He po lani makamae
Pa mai ka mahealani
He nani `oe ke `ike aku
Me na lei onaona
He po lani makamae
Kau mai ka maka i ka pua
Ku pono i ke kumu
Ka uluwehi o ka`au
He po lani makamae
Ka `oaka o ka lani
Ho`opili mai kaua
Awaiaulu `ia ke aloha
He po lani makamae
Ha`ina mai ka puana
Ku kilakila na pali
Moe malie ka `aina
He po lani makamae
ワイマーは澄みわたり 崖は荘厳にそびえている
大地は静かに横たわる 最愛の天国の夜
満月の光は輝き 見れば、あなたは美しい
甘い香りのレイをかけて 最愛の天国の夜
かわいいあなたを見ていると 正しい生い立ちがわかる
カアウの青々とした茂みから来る 最愛の天国の夜
オーストラリアの渚 玲子さん、メールお待ちしております。
OSを入れ替えた時にうっかりアドレス消してしまいました。
ハワイの玉ちゃんより。
OSを入れ替えた時にうっかりアドレス消してしまいました。
ハワイの玉ちゃんより。



小泉 文夫(こいずみ ふみお、1927年 - 1983年56歳)は、日本の民族音楽学者。
夫人は声楽家の加古三枝子。
東京都出身。府立四中などを経て東京大学に入学。在学中に日本音楽学に関心を持つ。
卒業後は、東大大学院人文科学研究科美学専攻に籍を置きながら平凡社に勤務。
邦楽や東南アジアや中近東、アフリカ音楽に興味をもち、日本の伝統音楽の研究やNHK
交響楽団機関誌の編集委員などをつとめる。1957年にインドに留学し、
インドの古典音楽や民族音楽の調査を行う。1959年から東京藝術大学の教員となり、
日本を始めとして、世界中の民族音楽の調査や研究に従事。その傍ら、NHK-FMの
「世界の民俗音楽(後の「世界の民族音楽」)」の番組の担当や、NET(現テレビ朝日)
の「世界の音楽」などにも出演するようになる。
欧米系の音楽中心であった日本の音楽界において民族音楽の地位を向上させ、
およそ30年もの間、テレビやラジオを通じて多くの人に民族音楽の紹介や啓蒙を行なった。
没後にキングレコードで、小泉監修によるCD『世界民族音楽集』が出されている。
2002年に<CD71枚組・732曲>で同社で『小泉文夫の遺産~民族音楽の礎』が、
また1995年にコロムビアより『アジアの響き 小泉文夫記念音楽会ライブ』が出された。



ワイキキのハレクラニホテル前のビーチが、
癒しの海と呼ばれるワイキキのパワースポット、カヴェヘヴェヘ(KAWEHEWEHE)がある。
カヴェヘヴェヘは古来から病んだハワイアンが水浴びに集まった場所で、
病気や痛みを癒す力があると信じられている。
なお、「カヴェへヴェへ」とは、ハワイ語で「病気を治す」を意味する。
「ワイキキ」という地名は、ハワイ語で水(ワイ)が 湧く(キキ)場所を意味する通り、
200年前のワイキキは、あちこちで水が湧き出す湿地帯。マナが宿る癒しの地として信じられ、
病気を治療する「カフナ」(祈祷師)が住み、王族の邸宅や別荘も建てられていた。
中でも強いパワーを持ち、古代ハワイアンが病を癒すために水浴びをしたという場所が、
湧き出した真水が海水に流れ込むハレクラニ~アウトリガー・リーフ前の海。
当時、病気は過去に犯した罪が引き起こすと信じていた人々は、ガヴェヘヴェヘの海に入って罪を
懺悔。カフナとともに病気治癒の祈りを捧げたといわれている。




ルイ・ジョーダン(Louis Jordan、1908年-1975年)はアメリカ合衆国の歌手、
サックス奏者。ビッグバンド・ジャズとブルースの要素を合わせ持つ音楽、ジャンプ・
ブルースの代表的ミュージシャン。1940年代から1950年代初頭にかけて、
多くの曲をヒットさせた。
R&B(リズム&ブルース)の生みの親でもある。
アーカンソー州生まれ。チック・ウェブ楽団で活動し、名を広めていく。なお、ジャズ・
ボーカリストのエラ・フィッツジェラルドも、ルイと同時期にチック・ウェブ楽団に
在籍していた。1938年、チックに解雇されたのを機に独立し、デッカ・レコードと契約。
1942年、「ホワット・ザ・ユース・オブ・ゲッティン・ソバー」を『ビルボード』誌の
R&Bチャート1位に送り込む。1944年には、「G.I.ジャイヴ」がR&Bチャートとポップ・
チャートの両方で1位を獲得。1945年、ビング・クロスビーとのデュエット
「マイ・ベイビー・セッド・イエス」がポップ・チャートで14位を記録。1946年には、
エラ・フィッツジェラルドとのデュエット「ストーン・デッド・イン・ザ・マーケット」
がR&Bチャート1位となり、更に「チュー・チュー・チ・ブギ」が18週連続でR&Bチャート1位を記録。
また、やはり1946年にヒットした「エイント・ザット・ジャスト・ライク・ア・ウーマン」は、
後のロックンロールに通じるイントロで始まり、チャック・ベリーの楽曲「ジョニー・B.グッド」
のヒントになったとも言われる[1]。
デッカ・レコードからは18曲をR&Bチャート1位に送り込むが、1952年以降は大ヒットに
恵まれず、1954年にデッカを離れる。
その後は、マーキュリー・レコードなど様々なレーベルに録音を残す。1956年に発表した、
自分のヒット曲の再演アルバム『サムバディ・アップ・ゼア・ディグス・ミー』は、クインシー・
ジョーンズがプロデュースしたことで知られる。1975年67歳で没。





ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニア(James Joseph Brown, Jr.
1933年 - 2006年)は、アメリカ合衆国のソウルミュージックシンガー・音楽
プロデューサー・エンターテイナー。通称JB。
ファンクの帝王と呼ばれ、 The Hardest Working Man in Showbiz(ショウビジネス界
いちばんの働き者) The Godfather of Soul などとも称される。歌手、ダンサー、
そしてバンドのリーダーとして有名であり、1960年代から常にポピュラーミュージック
に影響を与えつづけ、20世紀の最も重要な音楽家の1人に数えられる。また、シャウトを
用いた歌唱法が特徴である。
ジャズ音楽家のマイルズ・デイヴィスは彼の影響を受けたと告白しており、R&Bが広まるにつれ、
彼のリズムの使い方が数多くの歌のインスピレーションになっており、その他ハウス (音楽)
などダンス音楽全般において彼とそのバンドのリズムパターンが使用、引用されている。
代表曲は「Get Up (I Feel Like Being A) Sex Machine」。
ブラウンのスタイルはマイケル・ジャクソンやプリンスにも影響をあたえている。
自身のバンドを J.B.'s と称しており、そのサックス奏者メイシオ・パーカー、ベーシストで、
後にジョージ・クリントン率いるPファンク軍団にて活躍したブーツィー・コリンズとともに
絶大な人気を誇っている。
ブラウンはその奇抜なファッションから日本ではPファンクの創始者ジョージ・クリントンとと
もにコミカル性が特に取り上げられることも多いが、その独自の黒人音楽としての芸術性は
極めて高く評価されている。
彼の父はインディアン・アパッチ族で、母はアフリカン・アメリカンとアジア人の系統である。

ケチャケチャ (kecak) とは、インドネシアのバリ島で行われる男声合唱。
または呪術的な踊り(サンヒャン)にともなう舞踏劇。バリ島では、Kを発音
しないため、現地ではチャと呼ばれている。ケチャはまた「モンキーダンス」
とも呼ばれることがあるが、本来的にはモンキーとは関連をもたない。
バリ島の伝統的な舞踏、サンヒャンは、疫病が蔓延したときなどに、初潮前の童女
を媒体にして祖先の霊を招き、加護と助言を求めるものであった。これに対して、
現在のケチャは、『ラーマーヤナ』の物語を題材とする舞踏劇の様式で演じられて
いる領主、チョコルド・グデ・ラコー・スカワティに招かれてウブドに在住した
画家・音楽家であり、現地の芸術家と親交を結びながら、ケチャやバリ絵画などの
「バリ芸術」を形作っていった。ある著名なバリ人舞踏家が、サンヒャン・ドゥダリ
の男声合唱にバリス舞踊の動きを組み込ませたのを見たシュピースは、ガムランの代わり
にこの男声合唱のみを使って『ラーマーヤナ』のストーリーを組み込んだ観賞用の舞踊を
考案するよう提案したのである。
上半身裸で腰布を巻いた数十人(百人を超えることもある)の男性が、幾重にも重なった
円陣を組んであぐら座りをする。
主旋律を刻むのがタンブールと呼ばれるパートであり、これは、一人で
「シリリリ・プン・プン・プン」との発声でメトロノームのように基本的な四拍子を刻み
全体のリズムを保つ。さらに、プポは、一人でメロディーを歌う。そして、この二人以外の
全員が、以下の4つのパートに分かれ混ざりあって座り、サルの鳴き声を模倣したピッチを
持たない「チャッ」「チャッ」というような発声をする。
プニャチャ
四拍子の間に「チャ」という叫び声を7回入れる。
チャク・リマ
四拍子の中に「チャ」を5回入れる。
チャク・ナム
四拍子の中に「チャ」を6回入れる。
プニャンロット
チャク・ナムを16分の1後ろにずらして刻む。
今月の末にバリ島へ行くので楽しみだ。





サザンソウルとはアメリカ南部から生まれたソウル・ミュージックである。
その立役者がオーティス・レディング(Otis Redding, 1941年 - 1967年)
である。
彼はアメリカ合衆国ジョージア州出身で、ソウル音楽に多大な影響を及ぼした歌手。
激情を込めた独特の歌唱法だった。航空事故により、26歳で死亡した。
1960年代初頭にジョニー・ジェンキンズのパイントッパーズで音楽活動を始め、
ソロ・シンガーとして契約後1962年に「These Arms of Mine」を発表(R&Bの
チャートで最高位20位、Billboard Hot 100で85位と人気を博す)、この歌を
きっかけに1964年スタックス傘下のヴォルトからアルバム「Pain My Hart」を発表、
アメリカ国内でアトランティック・レコードのもとで全国流通を果たす。
同年スティーヴ・クロッパー(ブッカー・T&ザ・MG's)との「Mr. Pitiful」は
(R&Bシングル・チャートで最高位41位、Billboard Hot 100]で41位となる)ヒットを
生み出した。生前のシングルレコードで最も評判を呼んだのはジェリー・バトラーとの
「I've Been Loving You Too Long」でR&Bのシングル・チャートで2位を記録して彼の
キャリアの中で最も高い評価を得る作品となり、古いラブ・ソングをリサイクルした
[Try a Little Tenderness」は1965年の代表曲となった。








1960年代の「古き良きアメリカ」の音楽業界で偉業を成し遂げた
モータウン・レコード。
ダイアナ・ロスなどの有名人を多く排出した。そしてそのボスが「ベリー・ゴーディー」
そのものなのである。
さらに「ソウル・ミュージック」なる新しい音楽も生まれた。
ポピュラー音楽の歴史において、「モータウン・レーベル」ほど、数多くの革新
を成し遂げた企業は他にないでしょう。ポピュラー音楽の進化を、あらゆる面で押
し進めた「突然変異的」企業、それがモータウンだ。その偉業をざっとあげると。
1. 小さなファミリー企業から、わずか十年でメジャーのレコード会社と肩を並
べるまでの企業に成長し、インディー・レーベル成功物語の先駆けとなった。
2. それまでは、黒人層を対象として制作、販売が行われてきたR&Bを、白人までも
その購買層としてとらえ、ポップ・チャートに次々と黒人音楽を送り込んだ。
3. 黒人が経営する企業として、アメリカで最大の成功を成し遂げただけでなく、
白人経営陣の採用などによりいち早く社内における人種の壁を破壊したこと。
4. 発祥の地である中東部の街デトロイトを離れず、ニューヨーク、ロス・アンジェルス
以外の街からでも、レコード会社として成功できることを証明した。(モータウンとは、
このアメリカ自動車産業の中心地デトロイトの愛称、モーター・タウンから取られた)
5. 起業戦略として、アーティストを徹底的に教育し、モータウンのイメージ、スタイル
を築き上げるというその後の音楽産業におけるプロモーション活動の基本を示した。
6. そして、これらのことを、ベリー・ゴーディー・Jr.という黒人中産階級出の一人の男が、
10年たらずで成し遂げてしまった。まさに、アメリカン・ドリームの典型であった。
(この業界の常識を覆すような変革は、カリスマ的な「ワンマン」社長だからこそ、
可能だったのだが)
残念ながら、ベリー・ゴーディーが成し遂げたことすべてが、素晴らしいことだった
わけでなかった。彼が黒人音楽を、白人社会だけでなく世界中に広めたことは、逆に
「ソウル」の持っていた「黒い魂」を失ってゆくきっかけにもなったのだ。80年代に
幅を利かせることになる「ブラック・コンテンポラリー」(通称ブラコン)と言われる
メロウなだけの気の抜けたサウンドの基礎をつくったのは、彼だったかも知れないが、
とは言え、1960年代時点では、彼の成し遂げた業績に文句のつけようはないのだ。
彼の生み出したサウンドは、まさにアメリカのサウンドそのものになったのだから。






ゴスペル(宗教音楽)のパイオニアと言えばアメリカのサム・クックを
忘れてはならない。
サム・クック(Sam Cooke、Samuel Cook、1931年-1964年)は
アメリカのソウル/R&Bの歌手。
ミシシッピ州クラークスデイル生まれ。後に家族とともにシカゴに移住。
父親は牧師であり、幼い頃から聖歌隊で歌う。19歳のときにゴスペル・
グループのソウル・スターラーズのリードボーカルとなり、端正なルックス
でゴスペル界ではアイドル的人気を博した。1957年にソロ歌手として
R&Bに転向し、「ユー・センド・ミー」がヒット。これをきっかけにR&B界で
数々のヒットを飛ばし、発展目覚ましかったソウル/R&B界のスターとなる。
それまでの黒人歌手のスタイルとは一線を画した洗練された音楽性が持ち味で、
白人層からの人気も高かった。
1958年にはマネージャーのJ.W.アレクサンダーとともに音楽出版社を設立。
後にはSARレコードを設立する。R&Bが流行した当時、黒人のアーティストは曲を
作っても満足な対価を得られず、白人の会社に「搾取」されるのが通例だった中
にあって、自らの著作権を管理するのは画期的なことであった。
サム・クックは黒人の権利に対する意識が高く、公民権運動にも積極的な関わりを
持ち、マルコムXやモハメド・アリとも親交を深める。1964年の「ア・チェンジ・
イズ・ゴナ・カム」は人種平等社会が訪れることへの期待を込めたメッセージソングであった。
1964年、ロサンゼルスのモーテルで管理人に射殺される。33歳。その死を巡っては
謎も多いといわれる。 (モーテルに連れ込んだ売春婦に金や服を盗まれ、仕方なく裸で
売春婦を追いかけ、その後銃で撃たれたとの説もあり)














ハワイのお正月の風景はアメリカの中でも類を見ないユニークさ。多人種文化を
そのままに反映され、さまざまな国のお正月の風習が長年の歴史の中で穏やかに
ブレンドしている。
アメリカではクリスマスツリーは新年が明けた1週間くらいまで、飾っておくこと
が多いが、ハワイの場合には日系人はもちろんそうではない場合も門松
(または門松風のもの)を飾るので、クリスマスツリーと門松が共存するというと
てもミスマッチな光景になったりする。
さて、そんなユニークなハワイのお正月の食卓はどんな風にお祝いされるのか?
まず地元の年末のニュースでも大きな話題として取り上げられるのは、マグロの
水揚げ量と年末の価格。
それというのも、ハワイのお正月はマグロの刺身がないと始まらないと言っても
過言ではない。ハワイでお刺身といえばPOKE(一口サイズに切った生魚をハワイアン
ソルト、醤油、海草、スパイスなどで味付けしたハワイ風お刺身)が真っ先に浮ぶが、
お正月には日本人にもなじみの深いSASHIMI(お刺身)こそがハワイのお正月になくては
ならないものなのだ。暮れが近づくとテレビも新聞のニュースもお正月マグロの価格が
トップニュースとなる。そして、ハワイでも SASHIMI はワサビとお醤油で食べるが、
ツマはなぜか千切りキャベツというのがお決まりのようだ。
クリスマスが終わると、ハワイのスーパーマーケットには日本のお正月を連想させる食材
が並ぶ。日系スーパーでなく、一般のスーパーにも、サトイモ、ミズナ、カマボコ、
お餅などが登場。そして、お煮しめもお正月にはおなじみのお料理。ハワイではNISHIME
が英単語で通用するほど。日系アメリカ人家庭では、昔ながらの石臼でお餅をつく、
日本よりも日本らしい家庭もあり、本格的なお雑煮やおせちが作られていると言う。
日本でおめでたい色といえば紅白。もちろんお正月のカマボコも紅白だが、アメリカで
ホリデーシーズンのカラーと言えば?赤と緑のクリスマスカラー。アメリカと日本の風習が
ミックスされているハワイでは、地元産カマボコにはちゃんと緑色のものがある。ハワイの
お正月ならではのユニークなお祝いカマボコです。
ハワイアンソルト、醤油、海草、スパイスなどで味付けポケ ハワイもアメリカだから、
お正月のお祝いはあっという間に元旦の一日だけで終了する。 大晦日はアメリカの風習で
打ち上げ花火が行われるが、もうひとつアメリカ広しといえどもハワイだけの風習となって
いるのが、中国のお正月で使われる爆竹。この数年、個人が購入できる打ち上げ花火の種類
や爆竹の数の制限がされるようになったが、それでもハワイの大晦日は爆竹の炸裂音と煙、
花火のパチパチとはじける音が島中を包みこむ。
いずれにしてもハワイでも日本と同じと考えればいいのでは。