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Royal Hawaii

ALOHA! ハワイアンバンドでスチールギターをやっています。 ハワイアンファンの皆様、全員集合。

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 ハワイはオアフ島のノースショア海岸。ここにはサンセット・ビーチや
ワイメア・ベイなどがある。ハワイ有数のサーフィン大会が開催される
ことでも有名だ。その為レジェンド(伝説)サーファーが多く集まる。
ここで「サーフ&シー」と言うサーフショップを経営しているオーナー
「ジョー・グリーン」がいる。奥さんが日本人のナオコさんだ。
息子ジョイもこの春大学を出て店を手伝っている。
彼はフロリダ生まれであったが、ここのサーフィンに魅せられ、移住したのだ。
彼のもう一つの顔が「リサイクル・エコ・ウクレレ」の制作だ。
廃材を利用して見事なウクレレを作り販売している。どんな材料でも製品
になるという。もちろんハワイコアもあるが、自分で探しにいくこともある。
その為、値段も一般商品に比べると約半値近い安さだ。ここにもエコがあった。
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テーマ:ウクレレ - ジャンル:音楽
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 「鈴懸の径」「森の小径」「新雪」などお馴染みの詞を提供してくれた
佐伯孝夫。
佐伯 孝夫(本名:和泉孝夫。1902年 - 1981年享年78歳)は、
日本の作詞家。
早稲田大学仏文科卒業。在学中西條八十に師事。1931年に東京新聞社入社、
1937年には毎日新聞社へと移る。1939年、ビクターレコード
専属作詞家となる。西條八十門下生の1人。 戦前は、佐々木俊一と組み、
多くを灰田勝彦や小畑実に作品を提供した。

戦後は、作曲家・吉田正とコンビを組み、『有楽町で逢いましょう』、
『東京ナイト・クラブ』、『潮来笠』、『いつでも夢を』、
『恋のメキシカン・ロック』など数々のヒット曲を生み出した。
テーマ:お気に入り&好きな音楽 - ジャンル:音楽
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 浜圭介(本名:金野 孝(こんの たかし)、
1946年生まれの64歳 )は、旧満州出身の日本の作曲家。
青森県大鰐町、次いで北海道札幌市に移り住み幼少期を過ごす。
1962年、上京し、同郷の歌手・森山加代子の付き人となる。
牧幸次の芸名で歌手として「波止場のロック」でデビュー。
しかし、なかなか芽が出ず苦労の末、その後作曲家に転身、
ミリオンセールスのヒット曲を連発している。
1974年、奥村チヨと結婚。奥村の姪は麻生祐未、麻生の元夫は永澤俊矢。
その後の活躍は周知の通り。
2005年、春の褒章で紫綬褒章を受章。
テーマ:おすすめ音楽♪ - ジャンル:音楽
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市内の友人から「お寺でライブがあるので来ないか」との連絡を受け、
早速駆けつける。入場料は500円と言うことであったがこれは友人が
出してくれた。
西光寺(浄土真宗)と言う大きなお寺で檀家が600もあると言う。
このお寺ではライブが活発で年数回ジャンルを変えて開いている。
今回は「第8回西光寺音楽の夕べ」と題してクラッシックが中心だ。
日本の旅情歌、映画音楽、クラッシックと2時間たっぷり聴かせてくれた。

「アンサンブル・ピパール弦楽合奏団」
・ヴァイオリン・・・北原めぐみ
・ピアノ・・・今井麻耶
・チェロ・・・松谷明日香
・ソプラノ声楽・・・竹内直美
以上4人による演奏であった。

最後は宗教歌(真宗宗歌・恩徳讃・生きる)など全員で歌って締めくくった。
とにかく若いプロの女性のアーチスト達、さすがである。
テーマ:音楽大好きっ!! - ジャンル:音楽
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 岡崎友紀がハワイアンを歌っていることは以前から知っていたが聞くのは
初めてである。なんとうまいことよ。さすがプロの歌手である。
「ブルーハワイ」「カイマナ・ヒラ」など見事に歌いこなしている。
YouTubeにあるが転載無効となっている為、各自で聞いてもらうほか
ないのである。
岡崎 友紀(本名:岡崎 友紀子、1953年生まれの57歳)は日本の女優、歌手。
最初は、子役として舞台やテレビに出演し始め、「王様と私」「屋根の上の
バイオリン弾き」等のブロードウェーミュージカルの日本初演に起用される。
「おくさまは18歳」の大ヒットにより、シリーズ大ヒットとなった。
さらに作詞の才にも恵まれ、18歳シリーズの主題歌を始め多くの曲を
「岡崎友紀」または「おくさまは18歳」の役名「高木飛鳥」のペンネームで
作詞している。
1978年にソニー共同創業者盛田昭夫の長男盛田英夫と結婚するが、3年で離婚。
2年後にミュージシャンの岩倉健二と再婚したが、2005年に再び離婚した。
その後もタレント・舞台女優として精力的に活動している。
また「岡崎友狸(ゆうり)」の雅号を持つ書道師範でもあり、環境保護活動にも
積極的に取り組んでいる。
2010年7月に行われた参議院選挙で民主党から比例代表で出馬したが落選した。
テーマ:女性アーティスト - ジャンル:音楽
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 稲垣 潤一(本名同じ、1953年生まれの57歳)は、日本の歌手、
ミュージシャン。宮城県仙台市出身。
小学校5年頃から箸を持ってドラムスの真似をしていたという。
中学に入り本格的なバンド活動を始め、仙台にて「フェイセス」を結成、
ドラム'nヴォーカルというスタイルが評判となった。当時スティービー
ワンダーを歌わせれば右に出る者はいないと言われていた。その後、
仙台のライブハウスや横須賀や立川の米軍キャンプ等で演奏を続けるうち、
「スーパーポップボーカル」というキャッチコピーで1982年に
「雨のリグレット」でデビュー。以降、次々とヒットを飛ばし、
彼の曲の入ったカセットテープを流すことは1980年代のドライブデート
の定番となった。
2007年より、ユニバーサルミュージック・USM Japan(現在は、
ユニバーサル ストラテジック マーケティング ジャパン)レーベルに移籍。
なお、BMG(air Records)時代のものを除き、Imperial Records時代までの
楽曲の原盤権はフジパシフィック音楽出版が管理しており、2008年に
USM JAPANレーベルからファンハウス以前のアルバムが再発された際には、
フジパシフィック音楽出版のライセンシーによりリリースされている。
テーマ:男性アーティスト - ジャンル:音楽
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 ハワイはオアフ島にある「ラニカイビーチ」。
ラニとは「天国」、カイとは「海」を意味する。
その名の通り幻想的なビーチなのだ。
ここにハワイで一番と言われる「パンケーキ」のおいしい店がある。
その名も「ブーツ&キモズ」だ。マカデミア・ナッツソース・パンケーキが
$6.95と値段も手頃であることから連日客が訪れている。
オーナーのクリスタル・キャコナ・カナヘレさんによると、
最初はマウイで叔父のキモさんが1980年から1986年にオープン。
彼は1989年に店を閉めた為、彼女の父がマウイからキモ叔父を呼び寄せ
手伝ってもらうことになった。
この時にキモ叔父がマカデミア・ナッツ・ソースを開発したのだと言う。
いずれにしても一度食べて見たいねえ。
テーマ:ハワイ生活 - ジャンル:海外情報
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 中川 英二郎(1975年生まれの35歳 )は、日本のトロンボーン奏者。
東京都出身。
父がトランペット奏者の中川喜弘、兄が作曲家・編曲家の中川幸太郎、
さらにクラリネット奏者の中川武、トロンボーン奏者の中川敦嗣を叔父に
持ち、祖父も新交響楽団のバイオリン奏者という音楽一家に生まれる。
3歳にピアノを始めて音楽の基礎を学び、5歳の時にトロンボーンを始める。
この頃からあらゆるトロンボーン奏者のコピーを行い、8歳の頃には既に
父・喜弘のバンドの準メンバーとして活動を始めていたという。
東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校入学後から学業と平行してスタジオ
・ミュージシャンとしての活動を行い、1992年には16歳にして初の
リーダーアルバム「EIJIRO NAKAGAWA & FUNK '55」を発表する。
スタジオ・ミュージシャンとしての活動は幅広く、数多くのアーティストの
レコーディングに参加している。クラシック分野でも東京佼成
ウインドオーケストラのゲストプレーヤーとしての参加や、読売日本交響楽団
との競演を果たしている
テーマ:男性アーティスト - ジャンル:音楽
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 ニューヨークのハーレム地区、ここにある「アポロ劇場」、黒人が中心に
連日華やかなステージが繰り広げられている。
スーパースターのマイケル・ジャクソンがデビューしたのもこのステージである。
定期的に行われているゴスペル(福音)大会にこのほど日本人が出演し、
話題となっている。その名も「ハーレム・ジャパニーズ・ゴスペル・クワイヤー」
と言うものだ。留学生や赴任している会社のビジネスマン、芸事修行中の若者
など総勢約20人が終結した。
特徴はあえて日本語を一部入れたことだ。これが結果的に好印象を与えたのだ。
リーダーの松尾公子さん、この道10年のベテランである。
以前行われたアマチュア・ゴスペル大会で優勝している実績を持つ。
この日も拍手喝采で幕を閉じた。涙、涙でまた日本の社会へと散って行った。
テーマ:音楽大好きっ!! - ジャンル:音楽
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尾崎 孝、1951年東京生まれの59歳。
法政大学入学(工学部)と同時に始めたスチールギターに魅せられ、
4年生の時にプロ活動を始める。
卒業後2年間はカントリーバンドに所属し、その後ファゼイ・ペダル
スチールギター・プロダクツのスタッフとしてスチールギターの製作
に携わる一方、フリーのスチールギター奏者としてカントリー系
アーティストのライブ及びコンサート等のサポート、またニュー
ミュージック系のアーティストのレコーディングに参加。
1981年にファゼイを退社。本格的にプロ活動を開始。故小坂一也氏
のアルバム制作をきっかけにして第二期‘ラストショウ‘のメンバーとなる。
1983年 渡米。ミズリー州セントルイス周辺のローカル・カントリー
バンド゙のメンバーとして活躍。この間、インターナショナル・スチール
ギター・コンベンションに出演。好評を博す。
1988年日本在住のアメリカ人カントリー・シンガーと共にテキサス州
オースティン周辺のライブハウス・ツアーに参加、名誉市民となる。
1989年熊本で開催されたカントリー・イベント「カントリー・ゴールド」
に出演。ハンク・トンプソン、ワンダ・ジャクソンのサポートをした。
1990年 沢野ひとし(イラストレーター)率いるカントリー・バンド
「メイフライヤーズ」にべーシストとして加わり、各地でのイベントにおいて
アマチュア・ミュージシャンとの交流を深める。
1992年故黒田美治氏のディナーショウにおいて音楽監督を担当、
これをきっかけに、翌年からシリーズ化された「小坂一也とカントリーの仲間
たち」コンサートでも音楽監督及びバック・バンド「The Western 
Band」のリーダーを努めた。
1998年 スチ-ルギター・ファンの会「ピッキング・クラブ」の役員として
第一回「8時間耐久スチールギター・バトル」を企画。関東、中部、関西を中心
としたスチールギタリストを集め成功させる。
現在は、ギターリストの徳武弘文率いるグループ‘Dr.Kプロジェクト‘
に所属し、またスチールギターファンの会‘ピッキン・クラブ‘の役員として
スチールギターの普及に努めている
テーマ:男性アーティスト - ジャンル:音楽
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 「日本のハワイアン」と言われているものに、古くは「鈴懸の径」
「森の小径」などがある。最近では真木柚布子が歌っている
「マハロ・ヌイ・ロア」(どうもありがとう)「渚のビギン」
が注目を浴びている。
真木柚布子が実にうまく歌っている。聞かせられないのが残念だ。
これは我々も早くに取り入れてレパートリーにしている。
映像も探したら出てきた、フラも入っている貴重なものである。

    マハロ・ヌイ・ロア
    (どうもありがとう)
 
 作詞:上田紅葉 作曲:泉 盛望

微笑みのレイ ときめきのフラ
南の島に 咲いた恋の花
そよ風のキス とこしえの愛
あなたに贈る 幸せの歌

*忘れないで 忘れないわ
永遠の愛を あなたに
マハロ・ヌイ・ロア愛する・・・
マハロ・ヌイ・ロア あなたに・・・

思い出の夜 三日月の舟
南の島に 咲いた星の花
伝説の丘 虹色の夢
あなたに贈る 幸せの歌
海をこえて 時をこえて
永遠の愛を あなたに
マハロ・ヌイ・ロア今宵も・・・
マハロ・ニオ・ロアあなたに・・・

   渚のビギン

 作詞:上田紅葉 作曲:西條キロク

恋は・・・二人だけのものだから
心の・・・時計外して今は
渚に身を寄せ 椰子の木陰甘く
ときめき感じるままに
風のウクレレ 魅惑のリズム
素肌も酔わせる恋よ
どうぞ 何も言わずにいてね
踊りたいのよ あなたとこのまま・・・

空に・・・燃える太陽はひとつ
真っ赤な・・・恋の命もひとつ
引き潮みたいに いつか覚める夢も
今夜の二人はひとつ
熟(う)れたパパイヤ 南国の夜
涙もとけゆく恋よ
いいの 明日(あす)のことなど今は
忘れたいのよ 悲しい別れも・・・

風のウクレレ 魅惑のリズム
素肌も酔わせる恋よ
どうぞ 何も言わずにいてね
踊りたいのよ あなたとこのまま・・・






テーマ:女性アーティスト - ジャンル:音楽
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 加藤 登紀子(本名:藤本登紀子、1943年生まれの67歳 )は、
旧満州ハルピン生まれ(父親は満鉄勤務)。
京都育ちのシンガーソングライター、作詞家、作曲家、女優。
「おときさん」の愛称で親しまれている。東京都立駒場高等学校、
東京大学文学部西洋史学科卒。現在は城西国際大学観光学部
ウェルネスツーリズム学科の客員教授でもある。
1965年 東京大学在学中に、第2回日本アマチュアシャンソンコン
クール優勝。1966年 「誰も誰も知らない」でデビュー。「赤い風船」
で第8回日本レコード大賞新人賞受賞。1969年 「ひとり寝の子守唄」
で第11回日本レコード大賞歌唱賞受賞。
1972年 藤本敏夫と獄中(騒乱罪2年6ケ月)結婚。
出産のため一時音楽を離れる。
1973年 長女を出産後、音楽界に復帰。
「ひとり寝の子守歌」は、塀の中にいる夫を思って作られた、加藤の代表曲
のひとつでもある。、2002年に夫が肝臓ガンで死去(享年58)。
夫との間には3人の娘がおり、そのうち1人はYae(藤本八恵)として歌手活動中。
北海道標津町には、車で走ると「知床旅情」が聴こえる「メロディーロード」がある。
来場客に日本酒をふるまい、自分も飲みながらコンサートをする
「ほろよいコンサート」を各地で実施、人気である。
現在は、千葉県鴨川市で夫と開墾した田畑を「自然王国」と名付け、農業も営む。
亡き夫を想い「レモンの木」を庭に植えとぃる。
テーマ:女性アーティスト - ジャンル:音楽
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 ドアーズ(The Doors)は、アメリカのアートロックバンド。
1965年から11970年代初めまで活動した。
ロサンゼルスのUCLA映画科の学生であったモリスンとマンザレクが
グループを結成する。1985年にマンザレクに出会ったモリスンは、
自作の詩と歌を聴かせた。マンザレクは既に兄と共に
リック・アンド・ザ・レイヴンズというバンドで活動し、一方で元々
フラメンコギタリストだったクリーガーとジャズドラマーだった
デンスモアはザ・サイケデリック・レンジャースというバンドで
活動中で、マンザレクは彼らとメディテーション・センターに於いて
知り合いであった。モリスンの曲や詩に惹かれたマンザレクは、
兄のリックとデンスモアに声をかけデモ・レコードを録音する。
リックは、すぐにグループを離れ3人に、クリーガーと女性ベーシストを
加えたグループは、ロサンゼルスのロンドン・フォッグや
ウィスキー・ア・ゴー・ゴーなどでステージ活動を行う。
テーマ:洋楽 - ジャンル:音楽
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 ダーク・ダックスは結成して60年になる。
単純に4倍すると240年と言うことになる。ギネス(?)ものに匹敵か。
すでに80歳が2人もいる。
メンバー全員、慶應義塾大学経済学部出身。
同大学の男声合唱団ワグネルソサエティのメンバーたちが、1950年の
クリスマスパーティーで「ホワイト・クリスマス」の合唱を披露したことが
きっかけで結成。ただしこのときはパクさんこと高見澤宏が入学する前だっ
たので、メンバーは3人だった。結成当時はJAZZ・黒人霊歌を中心に活動し
ていたが、現在はオリジナル楽曲やロシア民謡、山の歌、唱歌など幅広い
ジャンルの楽曲をレパートリーとしている。
1997年に一過性脳虚血発作でマンガさんこと佐々木行が倒れ、
翌年より療養生活に入る。現在3人で活動でしている。
・高見澤 宏(1933年生まれの77歳)。トップテナー、静岡県出身。
・佐々木 行(1932年生まれの78歳)。セカンドテナー、福島県出身。
・喜早 哲(1930年生まれの80歳)。バリトン、東京都出身。
・遠山 一(1930年生まれの80歳)。バス、神奈川県出身。
テーマ:男性アーティスト - ジャンル:音楽
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 ハワイはオアフ島にあるマノア地区、ここがハワイで有名な「はちみつ」
の産地である。
オヒア・レフアの花からしか採取しない蜜を集めて製品化している。
日本で販売されている蜂蜜とは違う甘さで独特の味がすると言う。
ここ「マノア・ハニー・カンパニー」のオーナーである
「マイケル・M・キリックス」氏は製品のこだわりを強調している。
値段は1ビン7ドルからとリーズナブルになっている。これを使用したドリンク
やプリンも人気である。
テーマ:ハワイ生活 - ジャンル:海外情報
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 菅原 洋一(すがわら よういち、1933年生まれの77歳)は日本の歌手。
兵庫県加古川市出身。兵庫県立加古川東高等学校卒業。国立音楽大学大学院修了。
ニックネームはハンバーグ。
デビューからしばらくの間はヒット作に恵まれない不遇を味わったが、
1965年に発売した「知りたくないの」が2年後の1967年に入ってから
ヒット、80万枚を超える売上を記録し、人気歌手の仲間入りを果たし、
同年、NHK紅白歌合戦にも初出場を果たす。
現在はライフワークともなった最小限の音飾で「生の歌声と生音の演奏」
が中心の「ニュークラシカルコンサート」を全国クラシックホールを中心に
展開している。
テーマ:男性アーティスト - ジャンル:音楽
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 前田 憲男(まえだ のりお、1934年生まれの76歳 )は、
日本のジャズピアニスト、作曲家、編曲家、指揮者。
大阪府出身。小学校教師であった父より、幼少より読譜を学ぶ。
大阪府立桜塚高等学校卒業と同時に、プロのジャズピアニストと
して活動を開始。ピアノ・指揮法とも独学で習得する。1955年に上京、
以後、様々なバンドに参加する一方、数多くのテレビ番組のテーマ音楽を
手がける。特に、テレビ番組で競演した大橋巨泉とは親交も深く、
大橋の出演する番組のテーマ音楽の大半を手がけている。
またビッグバンド向けのアレンジも数多く手がける他、東京フィルハー
モニー交響楽団のポップス部門音楽監督として、編曲・指揮を担当している。
尚、「両手で譜面を書く」と一時話題になったが本人曰く
「そんなこと出来っこない」と一蹴した。
そうだろうなあ。
テーマ:音楽大好きっ!! - ジャンル:音楽
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 TWILL(トゥワイル)とはフィリピンとのハーフの双子姉妹に
よるR&Bユニット。出身は福岡県。
2001年にZOMBA Recordsと日本人初のアーティストとして契約し、
2002年にZOMBA Records JAPANよりアルバム「Before I Fall」で
デビューする。
2004年にはゾンバ・レコーズと契約を終了し、スウェーデンの
LaCarr Music,ACE OF BASEのマネージメント会社である
UNITED STAGE MANAGEMENT、北欧最大の流通会社であるBONNIER AMIGOと契約。
TWILLとはTWIN(双子、対をなすもの)、WILL(意志)という2つの言葉を
組み合わせたもの。
これからの活躍が楽しみだ。
テーマ:女性アーティスト - ジャンル:音楽
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 サエキ けんぞう(1958年生まれの52歳 )は、
日本のミュージシャン、作詞家、音楽プロデューサーである。
千葉県市川市出身。本名、佐伯健三。
1983年頃に結成された日本のテクノユニット、パール兄弟のボーカリスト
として活動。作詞家として数々のアーティストに詞を提供している。
また、文筆家としても活躍している。
歯科医師の免許を持っており、勤務医を務めた経験もある。
まさに異色のアーチストと言えるだろう。
テーマ:音楽大好きっ!! - ジャンル:音楽
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 久しぶりに良い映画を見た気がした。
最初から最後まで「慕情」の主題歌が流れ、釘付けとなってしまった。
『慕情』(Love Is a Many Splendored Thing )は、1955年に
公開されたアメリカ映画。ベルギー人と中国人の血を引く
女医ハン・スーインの自伝をもとに映画化された。主題歌
(サミー・フェイン作曲)は映画音楽史上の名作と言われる。
第28回アカデミー賞受賞作品。
第二次大戦終了後のイギリスの植民地の香港で、ヒロインのハン・スーイン
(ジェニファー・ジョンーズ)は勤務医をしている。夫は中国国民党の将校
で国共内戦で戦死していた。そこで、アメリカ人の特派員マーク・エリオット
(ウィルアム・ホールデン)と知り合い、二人は恋に落ちる。
しかしエリオットは別居中の妻がシンガポールにおり、離婚の話し合いのため
シンガポールへ行くがうまくいかず、二人の関係は香港で噂となる。
間もなく中国大陸の殆どの地域は国共内戦の末に中国共産党率いる中華人民
共和国が支配するようになり、ハン・スーインは中国大陸へ戻るよう説得
されるが、ほどなく朝鮮戦争が起こり、エリオットは派遣されるが、
そこで戦死、二人の恋は終わるラブストーリーだ。
最後はハッピーエンドで終わってほしかった。
テーマ:音楽のある生活 - ジャンル:音楽
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 Teresa Bright(テレサ・ブライト)。
日本ではCMソングでもお馴染みのテレサ・ブライトは、
ハワイにおいては数々の音楽賞を受賞している国民的シンガーでもある。
透きとおるような高音とチャーミングな唄い廻しは、
"ヒーリング・ヴォイス"と言われ、ハワイの風のように心地よく響きわたる。
特に彼女の歌はハワイ、伝統、音楽そして家族と友人をこよなく愛する
モチーフを大切にしている。
アコースティック・デュオ・グループ『スティーヴ&テレサ』デビュー以来、
ハワイを代表するシンガーとして活躍。88年、ハワイのグラミー賞
「ナ・ホク・ハノハノ・アワード」の「ソング・オブ・ジ・イヤー」を受賞。
90年のソロ・デビュー・アルバム『Self Portrait』は、
91年のナ・ホクにおいて「アルバム・オブ・ジ・イヤー」
「最優秀女性ヴォーカリスト賞」「ソング・オブ・ジ・イヤー」
「ハワイアン音楽最優秀楽曲賞」の主要4部門を受賞。日本においては、
現在までベスト盤1枚(日本編集)と6枚のアルバムを発表。
96年『クワイエット・ガール』収録曲『パフューム・オブ・パラダイス』
がJALのCMソングに起用され、日本における人気を確立した。
ウクレレの名手であり、ハワイ語で歌える数少ないシンガー。
伝統(アロハ・スピリット)にあふれた人柄と歌声は、日本でも根強い人気を
誇っている。従兄弟には、日本でも著名なクムフラである
フランク・ヒューイットが名を連ねるなど本物のハワイアンシンガーだ。





テーマ:女性アーティスト - ジャンル:音楽
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 長崎県佐世保市にその店はあった。
「Jazz Spot い~ぜる」と言うジャズ喫茶である。
「い~ぜる」とは以前この店に入るのに画廊を通って入ったことから
画廊の名前からとったのだと言う。
店主の山下ひかるさんは大阪の出身で、小さい頃からドラムを叩いていた。
ある日友人から佐世保にジャズ喫茶の出来るいい店があるからやらないか、
と誘いを受ける。2人で始めてはみたものの経営的にはやはり厳しいことを知る。
その内結婚し子供が出来たとなるとやはりこれでは駄目だと知り、
一時サラリーマンの社会へ。10年後やはりジャズ喫茶の夢はあきらめきれず、
独立して今の場所に店を構える。1972年の夏であった。
現在では1950年代のモダンジャズを中心にコレクションはLP4000枚、
CD700枚を超えるまでになった。
自らもジャズバンドを結成、各方面でライブを行っている。
場所がら外人も多く、そのあたりも受け入れられているゆえんかも知れない。
テーマ:毎日が音楽だ - ジャンル:音楽
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 伝説のハワイアン・スチールギターの名手と言えばサニー・カマヘレ
(SONNY KAMAHELR)JRをあげることができる。
その父親も偉大であったのだ。
現在75歳になり一線から引退し、ギター、ウクレレなど弾きながら
静かな余生をおくっている。
4歳から音楽を始めてこの道70年、音楽が人生にとって全てであったと
回想している。音楽は全て父親から学んだのだ。
そして人間として大切なことも。
そしてそれがすばらしい人生を与えてくれたとも。
ミュージシャンとしていかに優れているかと言うよりは、人間としていかに
優れているかの方が大切だ。それが同じ良い仲間に会えることにもなるからだ。
一番厳しく言われたことは「観客に対して最高の敬意を払わなければなら
なかったことだ」つまり観に来てくれるお客様がいなくなるのは我々に
とって一番のダメージになるからだ。
「ハワイアンは永久に不滅」と最後に言い残して去った。
テーマ:男性アーティスト - ジャンル:音楽
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 鈴木 慶一(1951年生まれの59歳 )は、音楽家、
音楽プロデューサー、ムーンライダーズのボーカル、リーダー。
東京都大田区出身。
父は俳優・声優の鈴木昭生(すずき しょうせい)。
1970年にあがた森魚と出会い本格的な音楽活動を開始。
はっぴいえんどのバックミュージシャンなどを経験した後、
自らのグループはちみつぱいを結成。1975年に実弟である
鈴木博文らとムーンライダーズを結成した。翌年にアルバム
「火の玉ボーイ」を発売。1986年から1991年ムーンライダーズ
は活動を休止するがその間、当時夫人であった鈴木さえ子の
「緑の法則」のプロデュースなどを手掛ける。
音楽を作るモチベーションを上げるためには何でもやり、
90年代に入ってからはコクトーが描いた「ピカソのポートレート」
のタトゥーをしている。
現在も精力的な音楽活動を行っている。
テーマ:男性アーティスト - ジャンル:音楽
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 「花 礼二」(本名:鈴木礼二)は亡くなった青江三奈を育てあげた作曲家
として知られている。青江三奈が亡くなる2ケ月前に入籍している。
従って戸籍上は「鈴木静子」となる。
青江三奈がクラブ歌手時代の芸名は「鈴原志真」と言う。つまり鈴木の「鈴」
と青江の本名「井原静子」からとったのだ。
静岡の実家を飛び出し花礼二のもとで同棲を始める。それが約20年間続いた。
売り出すまでは時間がかかったが二人三脚でスターダムへのし上がった。
面白いエピソードとしては当初「誰よりも君を愛す」をマヒナスターズと
レコーディング寸前まで行きながら「松尾和子」に代わってしまい、
レコード会社に不信感をもつようになる。
しかし「伊勢崎町ブルース」のヒットでその後の活躍は周知の通りだ。
今、花礼二は熱海に在住。亡き青江三奈の遺品を展示して忍んでいる。
テーマ:作詞・作曲 - ジャンル:音楽
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 ジェームス三木(1935年生まれの75歳 )は、日本の脚本家、
作家、元歌手。本名・山下清泉(やました きよもと)。
ペンネームの由来は「税務署行き」をもじったもので、歌手時代に
ディック・ミネに芸名をつけてもらおうとしたところ「これから税務署
に行かなくちゃならない」と言われたことから来ているとされる。
しかし学費や生活費を稼ぐためのアルバイトに追われ、なおかつ大阪弁
が抜けなかったことなどもあって、その後テイチクレコードの新人歌手
コンクールに応募したところ、200倍の競争率を突破して合格。
月給6800円でテイチクの専属歌手となり、ディック・ミネや
三波春夫の前座を務めまた石原裕次郎の「俺は待ってるぜ」、
「錆びたナイフ」のテスト録音を行っている。(同期に青江三奈がいる)
テイチクからはフランク永井(ビクター)の対抗馬として売り出されて
いたが人気が出ず、地方巡業など歌手として13年間の下積み生活を送る。
その間、大学入学資格検定(大検)に合格する。
その後は脚本家としてのデビューは「七人の刑事」。
以後の活躍は周知の通りである。
テーマ:男性アーティスト - ジャンル:音楽
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 岩手県一関市にその店はあった。ジャズ喫茶「BASIE」(ベイシー)だ。
これはもちろん「COUNT BASIE](カウント・ベイシー)から頂いたものだ。
本人から正式な承諾書もある。
その店主「菅原正二」さんの音に対するこだわりはかなりのものだ。
JBLのスピーカーや他のオーディオ機器と苦闘して日本のみならず世界
から注目される音を作り上げて頑張っている。
なにしろ2006年創立60周年を迎えた翌日とうとうそのJBL社長以下
ご一行も訪問して感謝状なるものも頂いている。。
レンガ造りの蔵を利用したジャズ喫茶。全国のジャズファンが訪れるほか、
一流ジャズプレイヤーの生演奏ライブも聞かれるのだ。
作家の五木寛之さんもベイシーがお気に入りの場所だ。
 永六輔さんがぶらりと来ることもある。たまたま渡辺貞夫さんのライヴの晩だった。
「では、ぼくが前座をやります」と言ってライヴの前に永さんのトークショーが
はじまり、お客さんは大喜びだったと言う。
その渡辺貞夫さんも年に一度、ベイシーでライヴをやる。ホールや大きなジャズクラブ
以外でナベサダさんのライヴが聴けるのはここだけなので、全国からファンがやってくる。
しかも、その演奏がこういうところじゃないと聴けないような熱い演奏なのだ。
実力人気ともに今一番のケイコ・リーも毎年、ライヴをやる。去年はここで
ライヴ・レコーディングまでやって、それがなんとジャズ専門誌スイング・
ジャーナルの「ジャズ大賞」の栄誉に輝いた。
 残念ながら、ニューヨークからいつも年末にやってきていたエルヴィン・ジョーンズ
が天国に旅立ってしまったので、恒例の年越しライヴは行なわれなくなった。
エルヴィンはここにマッコイ・タイナーとウィントン・マルサリスを連れてきた
こともあった。 また彼は「サウンド オブ ジャズ」などのエッセーも書いている。
その他に『ジャズ喫茶ベイシーの選択:ぼくとジムランの酒とバラの日々』
(講談社+α文庫)も書いている。
また他の趣味として写真もプロ並の腕前と言うから益々オーナーのマルチ才能ぶりが
ひとつ加わった感じである。
ニックネームは「SWIFTY](スイフティ)・・・すばやいと言う意味だと言う。
こんな店に一度行って見たいものだ。
テーマ:音楽のある生活 - ジャンル:音楽
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 九代目 林家正蔵(はやしや しょうぞう、本名:海老名 泰孝〈えびな やすたか〉、
1962年生まれの48歳 )は、東京都台東区根岸出身の落語家、
タレント、声優、司会者、大学教員。
以外にも高校時代はサックスを吹いていた。その後トランペットにも挑戦。
新たな一面も開拓している。やはりそれなりの素質があったのだ。
東京都立竹台高等学校卒業。出囃子は『あやめ浴衣』。前名は林家こぶ平。
初代林家三平と海老名香葉子の長男。実姉は、タレントの海老名美どりと
シンガーソングライターの泰葉で、実弟は落語家2代目林家三平。
義兄は俳優の峰竜太(美どりの夫)。祖父は7代目林家正蔵。
伯父は釣竿職人の中根喜三郎(母・香葉子の兄)。下嶋兄は甥。
正蔵の実の子も噺家として正蔵に弟子入りしている。2005年、
九代目・林家正蔵を襲名。
なお、後見人として、泰葉の元夫で落語家の春風亭小朝がいる。
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 この夏の総決算は結局雨で終了しました。
ビアガーデンも最後の日とあってお客様もまあまあの入りでした。
バンド、フラスタジオ「ウルプア寺沢教室」の皆さん、
非常によくやってくれて感謝、感謝です。
反省すべきは反省し、来年につなげたいと思います。
それでは来年またお逢いしましょう。それまでアロハ!
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