



















10月30日(土)pm7:00から上山田温泉スナック
「らぶ&ちびくろ」でハワイアンライブが始まりました。
折しも台風接近と言うことで心配されましたが、雨も降らず
奇跡が起きました。これも日頃の行いが良かったのでしよう。
店内満席でお断りしたお客様もかなりおりました。
演奏するには多少狭い感じでしたが、やりくりして何んとかこなしました。
いろいろなステージがあります。
これも宿命ですね。
このスナックは昼間はコーヒーショップで夜はスナックでカラオケが
メインです。
今回プロデュースしたのは坂城町在住でサカキJAZZ談(ダン)
会長の山本照男さんです。自身ジャズバンドをもっておられます。
歌もうまいです。
ステージも順調に進み恒例のフラ体験レッスンには全員が踊り大いに
盛り上がりました。
関係者の皆様いろいろありがとうございました。











ジェームス・ディーンは交通事故で24歳の若さで亡くなるまで3本
の映画しか出演していない。
「エデンの東」「ジャイアンツ」「理由なき反抗」である。
このうち「理由なき反抗」だけ見ていなかったので衛星映画劇場でこの
ほど上映された。1955年(昭和30年)制作と言うから今から55年前
と言うことになる。
しかし新鮮そのものだ。
古き良きアメリカの豊かな国と言うことが描かれている。高校生でも車を
乗っているのだ。敗戦国日本とは大違いだ。
あらすじはこうだ。
17歳の少年ジム(ジェームズ・ディーン)は泥酔のため、集団暴行事件の
容疑者として警察に連行された。彼は、そこで夜間外出で保護を受けた少女
ジュディ(ナタリー・ウッド)や、仔犬を射って注意されたプレイトウ少年
(サル・ミネオ)と知り合った。ジムの一家は転居続きであった。彼の父親
(ジム・バッカス)は意志薄弱で、家庭は男まさりの母親(アン・ドーラン)が、
きりまわしていた。
ガールフレンドのジュディの家庭もうまくいかず、2人は恋仲になるが不良
仲間とのトラブルなどがからみ、最終的にはプレイトウ少年は警官に射殺
されてしまう。いずれも家庭がうまくいっていない若者の葛藤を描いたものだ。
久し振りにジェームス・ディーンの魅力が伝わった映画でもあった。
















「内山田洋とクール・ファイブ」は福岡県柳川市出身のヴォーカル
グループ。1957年ころから福岡県内のベースキャンプで音楽活動を開始。
クラブやキャバレーでの営業を経て、1967年に小林正樹・岩城茂美・
森本繁・宮本悦朗らと「内山田洋とクール・ファイブ」を結成、
長崎市のキャバレー「銀馬車」の専属となる。自主制作した『涙こがした恋』
が有線放送で人気となり、徐々にミュージシャンとしての地歩を固めた。
1968年、前川清をメンバーに加え、1969年に『長崎は今日も雨だった』
でメジャーデビュー。これが大ヒットとなり、一躍スターダムにのし上がった。
その後も、『中の島ブルース』、『そして、神戸』、『噂の女』、本人作曲の
『東京砂漠』や『港の別れ唄』など、多くのヒットを飛ばし、ムード歌謡の
旗手として1970年代から80年代の音楽シーンを席巻した。
1987年にリードボーカルの前川がクール・ファイブを脱退するが、
その後もメンバーチェンジを繰り返しながらクール・ファイブとしての活動を
続けていた。
リーダーの内山田洋は2006年肺癌のため横浜市の病院にて死去。享年70歳。
その後は「前川清とクール・ファイブ」を結成、活動を再開している。











白井 貴子(1959年生まれの51歳 )は、神奈川県藤沢市出身の
シンガーソングライター。2006年、デビュー25周年を期に、
バンド活動を再始動。
5歳頃からビートルズの音楽を頻繁に聴いていた。15歳の頃より不意に
メロディーが浮かぶことがあった。初めてミュージシャンになることを
考え始めたのは、自身が1990年にポリスターより発売したアルバム
『BOB』に収録されている『ガラスの天井』にあるように17歳の時。
1981年 CBSソニーレコードの主催するオーディションに合格し女性
ヴォーカリストとしてデビュー。
その後、ロックバンド『白井貴子 & CRAZYBOYS』を結成し、自身の居場所
をポピュラー音楽からロックミュージックへと移すが、この時代、音楽業界
からは「女にロックは解らない」と冷淡な扱いしかされなかった。
そんな周りの反応を吹き飛ばすかのように、ライブが始まると同時に観客が
総立ちになる現象から当時は「総立ちの貴子」と呼ばれ学園祭クイーンにもなった。
1986年ビジネスライクな音楽業界と自身との葛藤が限界にきており、
ミュージシャンとしての自分を見つめなおすために1年かけて仕事を減らし、
事務所もレコード会社も辞め、バックバンド『CRAZYBOYS』のリードギター
本田清巳(後の夫)と共に渡英した。
帰国して3000坪の森を購入、アウトドアライフを楽しんでいる。
また海岸で拾ったものをオブジェにしてエコライフも楽しんでいる。






小林 旭(こばやし あきら、1938年生まれの72歳 )
は東京都世田谷区出身の俳優、歌手である。
子役を経て第三期日活ニューフェイスに合格。明治大学中退。
1958年、日本コロムビアより『女を忘れろ』で歌手デビュー。
映画の『ギターを持った渡り鳥』『銀座旋風児(ぎんざまいとがい)』
などの主題歌、挿入歌を歌いヒットさせる。また、「自動車ショー歌」
「恋の山手線」などのコミックソング、「昔の名前で出ています」などの
演歌も歌っている。また、これらの楽曲を独特の歌唱で歌いこなす姿から
総称して『アキラ節』と呼ばれることが多い。
2007年、日本プロゴルフ協会から、川上哲治、羽佐間正雄らとともに
名誉会員に認定される。名誉と言う肩書きではあるが、実際にプロの試合
に出て賞金を稼ぐことも可能である。さらに自身のニックネームを冠した
マイトガイレーベルという芸能制作会社を設立。マイトガイレーベル
第一弾CDとなる本人作詞作曲による新曲「折紙人生」が、
NHK『ラジオ深夜便』の「深夜便の歌」として採用される。また、大阪
新歌舞伎座で舞台『無法松の一生』にて20年ぶりの座長公演を務めた。





デューク・カハナモク(Duke Paoa Kahinu Mokoe Hulikohola Kahanamoku,
1890年 - 1968年。
ハワイはオアフ島に生まれる。純粋な先住ハワイ人である。彼の父親も同じく
デュークという名であったが、ワイキキで育った彼は幼少時よりアウトリガー・
カヌーや水泳に親しみ、長じては誰もが認める「ウォーターマン」となる。
母親は彼を「決して水を怖れず、可能な限り遠くにまで行ってごらんなさい」
と言われたいわれる。
1920年のアントワープ五輪でも100メートル自由形優勝、リレー優勝。
初の金メダルをもたらした。1924年のパリ五輪では100メートル自由形
準優勝に終わったものの、この大会で銅メダルを獲得したのは実弟サミュエル・
カハナモクであり、改めてハワイのウォーターマンの実力を世界に知らしめる
こととなった。
それまでは王族の遊びだったサーフィンをアマチュアのスポーツとして取り上
げたのだ。サーファーとしてのデュークは現代のようなサーフィンではなく、
伝統的なハワイのサーフィンを好み、「パパ・ヌイ(偉大なるパパ)」と名付
けられた巨大なロングボードを愛用していた。なおパパとはポリネシア神話に
登場する神の一柱であって、父親を指す英語ではない。この「パパ・ヌイ」
ロングボードは長さ4.8メートル、重さ52kgもあったという。
材はハワイアン・コアであった。
また彼の教えを忠実に守って指導しているビーチボーイの存在も無視出来ない。







フラダンサー「カノエ・ミラー」は1973年度のミス・ハワイに。
彼女が舞うフラに、観客はため息をもらす。
フラを始めたのは13歳の時。3人の娘をフラ教室に通わせていた母が、
姉妹の中でフラに魅了されたのは、カノエ・ミラーだけだった。フラの動き、
チャントには意味があり、それらを理解し踊りで表現することがダンサーの
使命だと語る。彼女は競技会で勝つフラではなく、自己表現としてのフラを
師から学んだ。レッスンでは、ハワイ語の詩を英語に直すだけでなく、
その内容を自分達の生活体験と関連づけて解釈し、皆の前で発表することが
義務づけられた。ストーリーテラーとなるための、必要な修行だったのだ。
十代の頃、カノエは二つの夢を同時に追いかけていた。一つはフラダンサー
になること、そしてもう一つはモデルになること。しかし「フラを踊るなら、
長い髪とナチュラルメイクは必須。と言われモデルはあきらめた。
その後、両親の強い勧めで応募したミス・コンテスト。地区予選を勝ち抜き、
あっという間にミス・ハワイの座を勝ち取った。
ミス・ハワイになったカノエの人生は変わった。各地に飛び回り、日本へ
親善大使として旅行する機会も何度もできた。後に知り合った夫との結婚生活も、
27年間ずっと安定している。そのカノエが心から愛してやまない仕事は
フラダンサー。彼女にとっての神聖な場所、ハレクラニでのパフォーマンスは、
驚くべきことに30年も続いている。
ハワイの大地を愛し、敬う気持ちを込めて踊ると言う。しなやかに表情を作る
指先の向こうに、刻々と色を変える空と海が続く。彼女とハワイの自然が見事
に溶け合い、完全なる美の世界を創り出している。






芸能生活57年になる島倉千代子。
島倉 千代子(本名同じ、1938年生まれの72歳 )は、東京・北品川
生まれの演歌・歌謡曲の歌手。日本音楽高等学校卒業。
昭和30年代は今で言うアイドル的存在で一時代を築いた。非常に独特な
高音のビブラート唱法や浮遊感あふれる発音など味わい深い歌唱法を持ち、
デビュー50年を経た今も尚、第一線で芸能活動を続けている。戦後の歌
謡界に多大な貢献をした代表的女性流行歌手の一人である。
1953年、15歳で日本音楽高等学校へ入学。歌謡コンクールにも積極的
に参加するようになる。1954年、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、
同社と専属契約。
1957年、19歳、「東京だョおっ母さん」が150万枚の大ヒット。
映画化もされ、自ら主演する。この年初めてNHK紅白歌合戦に初出場、
同じ年で憧れの美空ひばりと競演する。
その後はプライベート的にもいろいろあったが、持ち前の頑張りで乗り切っている。






森 進一(1947年生まれの63歳)は山梨県甲府市出身の日本の歌手
である。演歌を代表する人気歌手であるとともに、常に新たな音楽の領域
に挑戦し続ける幅広い音楽性の持ち主でもある。一聴して森とわかる、
独特のハスキーボイスを特徴とする。本名は森内 一寛(もりうち かずひろ)。
大原麗子、森昌子との結婚歴があり(いずれもその後離婚)、昌子との間に
できた長男森田貴寛はロックバンド「ONE OK ROCK」のボーカリストである。
母子家庭に育ち、沼津、下関、鹿児島など各地を転々とした。中学卒業と
同時に集団就職で大阪に移住、家族に仕送りするために少しでもいい賃金を
求めて17回も職を替えた。
1965年、フジテレビ系の「リズム歌合戦」に出場して優勝。チャーリー
石黒にその才能を見出され、渡辺プロダクションに所属した。スクールメイツ
を経て翌1966年、猪俣公章作曲による「女のためいき」でデビューした。
「恍惚のブルース」でほぼ同時期にデビューした青江三奈と共に、「ため息路線」
として売り出された。猪俣はその後の彼の数多くの代表曲を手がけることになる。
その後の活躍は周知の通り。














コアの木についてはアフリカ、中東など世界中に分布しているが、
ハワイコアについてはその品質の良いことで知られている。
ここカウアイ島にあるコア・クラフトショップをご紹介しよう。
オーナーは「グレイグ・コントラデス」さんだ。
ハワイコア(Acacia koa)はハワイ固有植物で、カウアイ島、オアフ島、
モロカイ島、マウイ島、ラーナイ島、ハワイ島の標高90m‐2,000mに
分布する。高さ35mぐらいまで成長する。(43mが最高記録)
1992年の台風(エヴァ)によって多くのコアが倒れ、それ以降コアの
全面伐採禁止となる。たとえ倒れた木でも持ち出し禁止なのだ。
今植林計画が順調に進められているが、結果が出るまで最低でも10年は
かかると言われている。
大木がたくさんあったころは、ハワイの先住民たちは木をくりぬいて大きな
カヌーを作っていた。
1800年代の西洋人の木造の立派な家が、今でも残っているが、木材として
使われたコアは真っ白なペンキで塗られている。コアの木はプランテーション
開発や牧場開発などのために伐採されてしまい、現在では大木が非常に少なく、
材木の不法伐採もあるようである。
コアで作った家具などは、非常に高価で、特に虎目石のように光の当たり方で
木目の縞模様が動いて見える綺麗な、波状に縮んでしわがよったカーりー杢
(もく)のあるものは、とても高額だと言う。
コアの木の特徴は硬く、同じ木目がないこと。また加工した場合でも狂いが
少ないのだ。
その昔、王様の娘の婿を選ぶのにカヌーで一番早かった者としたところ、
あるハンサムな青年がコアで作ったカヌーで優勝し娘を貰ったと言う昔話が
あるくらいだ。








タブラとは北インドの太鼓の一種である。正確にはタブラ(高音用:tabla)
とバヤ(低音用:baya)という2種類の太鼓であり、組み合わせて
タブラ・バヤとも呼ばれる。指を駆使し複雑で多彩な表現が可能である。
胴は、高音のタブラは木で、低音のバヤは銅や真鍮などの金属でできている。
胴の底は閉じており、壷や器のような構造になっている。皮はヤギ革であり、
高音のタブラは中央に、低音のバヤは中央よりやや前側に、鉄粉を穀物の粉
などと練りこんだ、スヤヒと呼ばれる黒いものが塗られている。これにより
容易に倍音を発生できることがタブラの大きな特徴である。 紐の結びかた
を変えたり、紐と胴の間にはさんだコルク栓サイズの木の小片(グリ)の位置
を動かすことなどで張力を調整し皮のチューニングを行う。チューニング時
には小型のハンマーも用いる。曲の調によってそのつどチューニングを変える。
日本でのタブラ演奏の第1人者としては「吉見征樹」をあげることが出来る






布施 明(本名:布施晃、1947年生まれの63歳 )は、日本の歌手、俳優。
伸びやかな声の持ち主として知られている。
現在、横浜市立大学学長を務める布施勉は実兄にあたる。
布施明は事務所の先輩であるザ・ピーナッツに憧れて歌手を目指した。
高校在学中に日本テレビ系のオーディション番組『味の素
ホイホイ・ミュージック・スクール』に合格。渡辺プロにスカウトされる。
1965年、「君に涙とほほえみを」でデビュー。その後、「恋」、
「霧の摩周湖」、「愛は不死鳥」、「積木の部屋」などがヒット。
1975年、「シクラメンのかほり」のヒットにより、第17回日本レコード大賞・
第6回日本歌謡大賞・FNS歌謡祭での最優秀グランプリなど、多数の賞を受賞。
1980年、ハリウッド女優、オリヴィア・ハッセーと結婚し話題を呼ぶ。
同年、アメリカに渡り、歌手活動やミュージカルなどでも活躍した。
1989年、離婚して日本に帰国。日本では考えられない額の慰謝料、
養育費が話題になる。
その後の活躍は周知の通り。
2009年、NHK『第60回NHK紅白歌合戦』出場25回を果たし、
「マイ・ウェイ」を歌う。紅白勇退を宣言。ポップス歌手出場枠を後進に譲る
意向を明かした。











クムフラ「 ヘアラニ・ユン」は先ずロワエ・シダの葉で
「ビリ・ア・レイ」を作る。
通常はティーリーフ(丈夫さが特徴)を使うが、
その時によって違うとも言う。
葉を2枚とって半分に折り曲げ背中合わせにする。そして編みこむ。
特定な植物にはフラの精神が宿っていると信じられている。
フラダンサーになるにはその植物を使ったレイの作り方、
それらの植物が何であったか、また各々の植物がどの神を象徴する
のかなどを学ばなければならない。
身につけているもの、身体で行う事の全てがフラの神に
捧げられているのだ。それは「フラは生きもの」だからだ。
彼女のプロフィール・・・
1985年、メリー・モナーク・フェスティバルのミス・アロハ・フラ。
1987年に、「フラの神様」と称される故ダリル・ルペヌイのチャント
を聞いて入門を決意。
女子部はなかったが、熱意で新設させる。
85年に、ミス・アロハ・フラに選ばれ、
「The Ladies of Ke `Ara O Ka Laua'e」を20代の若さで引き継ぐ。
後に、人気バンドHAPAの元リードボーカルであるケリイ・カネアリイ
(’94年、ハワイのグラミー賞と言われる「ナ・ホク・ハノハノアワード」
の6部門を制覇。)とパートナーとなり
子育てのためにハラウを縮小し、主にダンサーとして活躍。
2005年から、本格的にクムフラとして活動を再開。












「ファゴットはリードが命」と唱えるのはファゴット奏者の
河村幹子(かわむらもとこ)だ。
13歳より岡崎耕治氏のもとでファゴットを始める。
東京芸術大学音楽学部付属音楽高等学校卒業。
同大学首席卒業。2年生のとき、第10回を受講。
DAAD奨学生として渡独。
ハノーファー音楽大学入学。
国立ミュンヘン音楽大学大学院終了。
在学中ミュンヒナーシンフォニカーで研修生を務める。
市立アウグスブルク歌劇場首席奏者を経て、
現在新日本フィルハーモニー交響楽団首席奏者。
東京芸術大学、同付属音楽高等学校で後進の指導にもあたる。
これまでにファゴットを岡崎耕治、K.トゥネマン、E.
マーシャル各氏に師事。
暇さえあればリード造りに励んでいる。




バッファロー・スプリングフィールド(Buffalo Springfield)は、
1966年に結成されたアメリカのロックバンドである。
さまざまな音楽的要素を内包しながらも、そして、メンバーたちの
際立った個性がぶつかり合いながらも、密度の高い、調和のとれた
良質の作品を生んだ。その一方でメンバー間での対立
(とくにスティルスとヤングの対立)が絶えず、1968年に解散した。
活動期間は約2年と短かったが、その後の音楽シーンに大きな影響を与えた。
はっぴいえんどの細野晴臣ら、日本の音楽界への影響も大きい。
グループ結成のきっかけとなったのは、交通渋滞にまきこまれた路上で
スティルスとヤングがばったり再会したこと。のちに「ロック界の伝説」
として語られるエピソードのひとつである。
ヤングは、2000年のアルバムSilver & Goldで"Buffalo Springfield Again"
という曲を披露し、かつてのバンドメイトとの再会願望を歌うが、
2004年にブルース・パーマーが、2009年にはデューイ・マーティン
が他界したため、オリジナル・メンバーでの再結成は不可能となった。




























五木 ひろし(本名:松山 数夫、1948年生まれの62歳 ) は、
日本の歌手。作曲家、俳優でもある。2007年、紫綬褒章を受章した。
福井県三方郡美浜町出身。
父親は鉱山技師で鉱脈を追って家族で各地を転々としていた。生後、家族
で美浜町に移り、父親は鉱山技師を辞め建築用石材を扱う会社を興す。
がしかし事業に失敗して家を出て行方不明に。
1964第15回コロムビア全国歌謡コンクールにて優勝。作曲家の
上原げんとにスカウトされ、内弟子となる。デビューを果たすもヒット
に至らず。
デビューしてから約5年間の間に5度も芸名を変更するなど不遇の時代を
過ごす。
1970年、『全日本歌謡選手権』に、歌手生命のすべてを賭けて
ミノルフォン専属のプロ歌手“三谷謙”として出場。第1週挑戦時には、
「これで駄目なら、ふるさとの福井に帰って農業をやる」と悲壮な覚悟の
ほどを語っているが、最終的には10週連続で勝ち残り、
グランドチャンピオンに輝く。これにより、同番組の審査員であった作詞家の
山口洋子と、作曲家の平尾昌晃に師事。
その後の活躍は周知の通り。40歳で結婚し、長女である松山華菜子(高1)
を設けている。









ハワイのカウアイ島の近くにある「ニイハウ島」は個人所有の島でもある。
キースロビンソン、ブルースロビンソン兄弟が所有管理している。
ここでは人口が200人、主にパインなどの果実の生産が主な産業である。
そして今、力を入れているのが「ハワイアン・モンクアザラシ」
の育成である。
1970年代には全くいなかったのが、ロビンソン兄弟のおかげで今や
1000頭にも
なっている。これをこれからの観光の目玉とし、さらに自然をモチーフにした
一大プロジェクトを立ち上げた。これにより数年後は観光客でにぎわいをみせ
ると踏んでいる。
さらに高価な「ニイハウ・シェル」のレイづくりだ。とにかくここにしかなく、
フラダンサーにとっては羨望のまとでもある。少し身につけただけでも軽く
数百万円はすると言う。
ハワイモンクアザラシ(Monachus schauinslandi)は、アザラシ科
モンクアザラシ属に分類される食肉類。
出産直後の幼獣は全身が黒い体毛で被われる。オスの成獣は全身が褐色の体毛
で被われる。幼獣やメスの成獣は背面が灰色、腹面が淡灰色の体毛で被われ、
時間の経過と共に背面が褐色、腹面が黄色みを帯びる。
乱獲、人間の繁殖地侵入による妨害、漁業による混獲などにより生息数は激減
している。また生息数は減少していることに加えてサメによる襲撃も
指摘されている。






梓 みちよ(1943年生まれの67歳 )は、日本の女性歌手。
福岡県福岡市博多区出身。本名は林 美千代。
1960年代から1970年代を中心に数曲のヒットを飛ばした。
アメリカンポップスから歌謡曲まで幅広いレパートリを持つ。
1961年、宝塚音楽学校在学中に渡辺プロダクションのオーディション
に応募し合格。学校を中退し、上京し契約する。約1年間のレッスンを経て、
1962年に"ボサノバ娘"のキャッチフレーズでキングレコードより
「ボサノバでキッス」でデビューし、歌手として本格的に活動を始める。
1963年、夢であいましょう/今月の歌として発表された
『こんにちは赤ちゃん』が大ヒットとなり、同年のレコード大賞を受賞。
また同年末の「第14回NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たし、
人気歌手としての地位を得た。
現在でも意欲的に芸能活動を行っている。










「音楽は礼儀作法から」と唱えるのは三味線の家元本條流
「本條秀太郎」さんだ。
本條 秀太郎(ほんじょう ひでたろう、1945年生まれの65歳 )は、
日本の民謡・端唄・俚奏楽三味線の演奏者で、三味線音楽の作曲家である。
茨城県行方郡潮来町に生まれる。本名は高田 新司。
生家が潮来の花柳界に近かったこともあり、11歳より地元の篠塚みつに
ついて三味線を習う。1958年、三味線演奏家になるべく家族全員で上京し、
長唄を稀音家芳枝に、民謡を二代目大船繁三郎(民謡歌手 斉藤京子の実父)
にそれぞれ師事。高校卒業後、大船の紹介により民謡三味線の大家、
初代藤本丈の内弟子となる。
1971年、藤本流より独立し、『本條流』を創流、家元となり、
本條秀太郎を名乗る。秀太郎の芸名使用については師の藤本丈より許しを受ける。
『俚奏楽』を本條流の流儀の主体に据え、民謡・端唄・俚奏楽の3本柱での
活動を始める。
三味線・民謡・端唄の演奏家も多数育成し、高弟に金沢明子・高橋キヨ子・
成世昌平・神田福丸・本條秀五郎・本條秀邦らを輩出。
伴奏を手がける民謡歌手からの信頼も厚く、師である藤本丈に勝るとも劣ら
ない評価を得ている。
俳優の森繁久彌、片岡鶴太郎、朝丘雪路、音楽では細野晴臣、大瀧詠一をはじめ、
ジャンルを超えて本條の音色に魅了された著名人との交友関係も大変広い。
2007年 に 紫綬褒章を受章。










~~~芸能人の名前の由来~~~
○吉 幾三・・・「よーし、行ぐぞー」
○そのまんま 東・・・芸名を付ける時、芸名を思いつかなかったビート
たけしが「お前はそのまんま“東”だよ」と言われ、それが芸名となった。
○劇団ひとり・・・一人で何人ものキャラクラーを演じるネタであるので
○木の実ナナ・・・着の身着のままで(芸能界)に行け、と言われて
○佐藤B作・・・元・首相の佐藤栄作(A作)のAをBに変えた
○タモリ・・・本名の森田を入れ替えた
○弾厚作(加山雄三が作曲につかう筆名)・・作曲者の団 伊玖磨と山田耕筰
から姓と名の読みを拝借、別の漢字に当てはめた
○仲本工事・・・学生時代は運動選手でいつも怪我の治療(工事)をしていた
○つかこうへい(作家)・・・下積み時代に感じた(いつか公平な世の中になって
欲しい)という願いの「いつか公平」「いつかこうへい」のいを省いた
○阿久悠・・・悪友のもじり
○谷啓・・・アメリカのコメディアン「ダニー・ケイ」を拝借したのは有名
○花登筺(はなとこばこ・小説家)・・イギリスの劇作家・バーナード・ショー
の読みから。バーナード=ハナト、筺はショーとも読む
○益田喜頓・・・バスター・キートンの読みから
○南都雄二(漫才師)・・台本の字が読めず、相方の都 蝶々に読めない字
を「なんとゆうじ?」と いつも質問していたのが芸名になった
○二葉亭四迷(作家)・・家業を継がず文学に凝った息子をお前のような親
不孝者は「くたばってしまえ・・」と勘当されたのが筆名になった。
○江戸川乱歩・・・・あまりにも有名なので省略・・
ーーー 芸名と本名が同じタレント ーーー
阿部 寛
上野 樹里
織田 裕二
篠原 涼子(本名:市村 涼子 旧姓:篠原)
鈴木 京香
仲間 由紀恵
野際 陽子
藤原 紀香
福山 雅治
安 めぐみ
柳沢 慎吾
柳葉 敏郎
米倉 涼子
渡辺 謙
ーーー 本名が韓国名のタレント ーーー
つかこうへい(金峰雄)
マッハ文朱(李文朱)
安田成美(鄭成美)
岡本夏生(李夏生)
岩城滉一(李光一)
宮下順子(金英姫)
新井将敬(朴景在)
西城秀樹(李龍雄)
大山倍達(尹泰植)
沢田研二(李研二)
都はるみ(李春美)
立原正秋(金胤奎)
力道山(金信洛)
和田アキ子(金現子)
~~~在日著名人リスト~~~
小林 旭 五木ひろし 布施 明 春日 八郎 西城 秀樹
神戸 一郎 北原 賢治 野村 真樹 内田 裕也 ジョニー大倉
にしきのあきら 井上 陽水 柳ジョージ 矢沢 永吉
ビートたけし 沢田 研二 松山 千春 小畑 実 フランク永井
河島 英吾 井沢 八郎 坂本 九 宝田 明 堤 大二郎
児玉 清 松田 優作 岩城 混一 つかこうへい 菅原 文太
高倉 健 金田 賢一 隆 大介 小坂 一也 勝呂 誉
松村 雄基 大鶴 義丹 孫 正義
~~~スポーツ系~~~
前田 日明 長州力 ラッシャー木村 大木金太郎 青木 功
若乃花(初代) 二子山親方(貴ノ花) 若乃花 貴乃花 玉乃海
武蔵川親方(三重の海) 前の山 栃光 若葉山
二所ノ関親方(金 剛) 佐田の山 黒姫山 前田山 力道山
大山 倍達 星野貫太郎
~~~在日著名人リスト~~~
美空ひばり 都 はるみ 和田アキ子 山口 百恵 西田佐知子
小柳ルミ子 杏 里 川中 美幸 シャーミン 瀬川 瑛子
菅原都々子 由紀さおり 安田 祥子 八代 亜紀 青江 三奈
工藤 由貴 柏木由紀子 伊東ゆかり 松任谷由美 松坂 慶子
沢口 靖子 岡田 可愛 野川由美子 北原 三枝 新井 春美
山根 元代 安田 成美 宮下 順子 マッハ文朱 佐久間良子
石田ゆりこ 石田ひかり 大信田礼子 香山 美子 伊藤 蘭
林 寛子 岡本 夏生 ソニン 北原三枝
出典:東洋経済日報社資料「在日韓国人の底力」(植田 剛彦著)


1968年に結成され70年に解散、発表されたアルバムも
『Fifth Avenue Band』1枚のみという短期間の活動ながら、
彼らの作り出した音楽は実り多いものだった。R&B/ボサ・
ノヴァ/フォーク/ジャズといった異なる音の断片を無理なく
繋ぎ合わせ、洗練されたサウンドに帰結させる手腕は見事という
他にない。またメンバーそれぞれの演奏力、コーラス・ワーク、
ソングライティング・センスも絶妙で、これがデビュー当時に全く
評価されなかった(特に米国で)のは今もって信じられない。
1990年には再結成を果たし、『Really』を発表しているが、
これはAOR寄りの作品。また、メンバーのピーター・ゴールドウェイ
やジョン・リンド、ケニー・アルトマンなど、解散後のそれぞれの
ソロ活動もここ日本では人気が高い。
日本では山下達郎などに影響を与えたとしている。















寅さんこと渥美清さんが亡くなって早15年の歳月が流れた。
その後も彼のファンが多くいることもうなづける。それほど愛されて
いたのだ。
渥美 清(あつみ きよし、1928年-1996年)は、日本の俳優。
本名、田所 康雄。東京都台東区車坂町出身。
1951年、東京都台東区浅草のストリップ劇場(百万弗劇場)の専属
コメディアンとなる。
1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇、
東八郎、関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、
コント作家として井上ひさしが出入りしていた。
1954年、肺結核で右肺を摘出しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。
このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。
また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。
再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。
1956年にテレビデビュー、1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。
映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」
の図式が固まった。その後の活躍は周知の通り。
病気については1991年に肝臓癌が見つかり、その後は肺に転移しているのが
わかった。そして1996年肺がんの為死去68歳。