










森繁 久彌(1913年 - 2009年)は、日本の俳優、コメディアン。
1934年に早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇部にて先輩部員の谷口千吉
や山本薩夫と共に活動。この頃に萬壽子夫人と知り合う。その後、山本らが左翼
活動で大学を追われてからは部の中心的存在となりアマチュア劇団に加わり築地
小劇場で『アンナ・クリスティ』を上演した。
1936年、必修とされていた軍事教練を拒否して大学を中退。長兄の紹介東京
宝塚新劇団へ入団。その後は日本劇場の舞台進行係を振出しに東宝新劇団、
東宝劇団、緑波一座と劇団を渡り歩く。下積み時代は馬の足などしか役が付かな
かった。日劇で藤山一郎ショーの舞台進行を務めた時、藤山に頼み込み通行人の
警官役で舞台に立つも全くウケなかったなどの辛酸を嘗めた。座長の古川ロッパ
に認められた緑波一座では、盟友となる山茶花究と出会う。
1939年、NHKアナウンサー試験に合格し満洲に渡る。満州電信電話の放送局に
勤務。満洲映画協会の映画のナレーション等を手掛ける。甘粕正彦とも交流があった。
1939年、長男(元俳優の森繁泉)誕生。
1950年、NHKがアメリカの『ビング・クロスビー・ショー』に倣ったラジオ番組
『愉快な仲間』を放送。メインの藤山の相手役のコメディアンとして抜擢され、
『愉快な仲間』は2人のコンビネーションが人気を呼び、3年近く続く人気番組
となった。この放送がきっかけで映画や舞台に次々と声が掛かり、一躍人気タレント
となった。1953年からマキノ雅弘監督の『次郎長三国志』シリーズに三枚目
の森の石松役で出演、シリーズ第8作の『海道一の暴れん坊』で無念の死を遂げ
るまで大活躍する。
ラジオやテレビでのトーク番組・バラエティ番組等では、その独特な話り口が
「森繁節」として親しまれた。舞台では1959年より「森繁劇団」を結成し、
持続的に演劇活動を行う。またミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』は
900回にわたってユダヤ人・テヴィエ役を演じ、彼の代表作となった。
その後の活躍は周知の通り。
2009月11月10日東京都内の病院で老衰のため死去。96歳。
日本政府は大衆芸能の発展に尽くし、多くの人材を育てた生前の功績を多とし、
森繁久彌に対し、従三位に叙すると同時に国民栄誉賞を授与する閣議決定を行った