















ハワイ島の郊外に「BUZZY HISTO HULA」
(バジィ・ヒスト・フラ)のハラウがある。
これを運営しているのがクムフラでレイメーカーの
「バジィ・ヒスト」である。
彼の作るレイは基本に忠実できれいだと評判だ。
彼の口癖は「レイは神と人との橋渡し」であると常に言っている。
従ってレイは大変重要なものだと説く。
その為レイ制作は気合いをいれて行う。
今回は「ビリ」と言うレイの作り方を教えてくれた。
先ず「ティーリーフ」を半分ぶした「バキ」にシダを一つずつ
折り曲げて巻きつける。
この島に自生する「リコ」と言うシダを使う。
同じくハワイの花「アアリイ」を巻く。
銀色に輝きビロードのような感触を持つ
地元の山々でしか採れない植物なのだ。
さらに「パイオネ」をつける。
違う種類の花を加え、レイの色数を増やすのがコツ。
花がお互いを引きたてる効果を狙う。
「ビリ」は花を一つずつ巻いて作っていくのが特徴だ。
花を使えば使うほど美しくなる。
フラ競技会に参加するときはレイを特別に扱うと言う。
それは競技会にはそれまで流してきた汗や流儀、神の教え
などが隠されているからだ。
従って彼等は決してレイを軽視はしない。
先ずビーチでレイを海に捧げる。
そしてレイを受け取った人が幸せになるように祈る。
レイを受け取る人の笑顔を楽しみに。














ハワイはカイルア・コナに日系人の始めたコーヒー農園があった。
ウチダ・ファームである。現在はミュージアム(博物館)として
保存されている。
1900年明治政府の移民政策により日本から約600名の
サトウキビ栽培が目的で入植した。そこがラハイナである。
その中に熊本県出身の内田大作さんがいた。サトウキビ栽培は過酷
を極めおまけに低賃金に見切りをつけ、当時有望とされたコーヒー
の栽培のためカイルアに移り住み農場のリース契約を結ぶ。
内田大作さんの先見の明があったのだ。1912年日本人女性と結婚、
1915年長男正男さんが誕生した。その後7人の子供に恵まれ家族で
コーヒー農場を支えた。これがコナ・コーヒーの誕生である。
コナ・コーヒー繁栄の影に日系人がかかわっていたことは余り知られていない。
1994年農場のリース契約が切れ農園は廃業したがミュージアムとして今も
保存されている。現在この兄弟は健在でホノルルに住んでいる。
コナ・コーヒーとは・・・
ハワイのハワイ島西岸のコナコーストで主に栽培されているコーヒーの総称
である。 アメリカ合衆国の州では、ハワイ州がコーヒーを商業ベースで生産
している唯一の州であり、ホワイトハウスの公式晩餐会で出されるコーヒーは
必ずコナコーヒーである。 なお、日本企業でも、UCCやドトールコーヒーが
コナコーストで観光農園を経営している。
非常に強い酸味を持つ。ブレンドに用いると良質な酸味が与えられると言われる。
ブルーマウンテンに次ぐ高価な豆である。高価な理由は、希少価値というよりも、
コーヒー豆の原産国のうち、唯一先進国のため、人件費・土地代などの費用が
高いためと言われている。































加山 雄三(1937年生まれの74歳 )は、日本の俳優、シンガー
ソングライター、タレント、作曲家、ギタリスト、ピアニスト、画家。
神奈川県横浜市出身本名・池端 直亮(いけはた なおあき)。
作曲家のペンネームは弾厚作。ニックネームは若大将。
父親は俳優の上原謙、母は女優の小桜葉子(岩倉具視の曾孫)。
妻は元女優の松本めぐみ、長男はコンピュータグラフィックの会社を
経営する池端信宏、次男は俳優の山下徹大(てつお)、
長女はタレント・料理研究家の梓真悠子、次女は女優の池端えみ。
慶應義塾大学法学部政治学科へ進み卒業後の1960年春に東宝へ入社。
NHKの『NHK紅白歌合戦』出場17回。代表曲多数。後のフォーク
ソングやニューミュージック全盛時代に先立つ、日本におけるシンガー
ソングライターの草分け的存在である。
1965年に映画『エレキの若大将』主題歌として発売された
「君といつまでも」は350万枚の大ヒットになる。
1965年、茅ヶ崎市にパシフィックホテル茅ヶ崎を開業した。
しかし、ホテルは1970年に倒産し、加山は父の上原とともに巨額の
負債を抱えた。加えて、女優松本めぐみとの駈け落ち同然の結婚が世間
を騒がせ、かつてない不遇の時代を迎える。ナイトクラブ、キャバレー
回りをするもギャラはほぼ全額借金の返済に充てられ質素な生活へ
と追い込まれるが、活動の主軸をテレビに移し、『加山雄三ショー』
を始めとするバラエティや『大追跡』などのテレビドラマで徐々に息を
吹き返す。
その後の活躍は周知の通り。2年前に孫が誕生。










ハワイ島ワイメアに弦楽器修理工房がある。ワイメア・ストリングスだ。
経営しているのは日系人のクリス・カワカミ氏である。
本業はウクレレ製作であるがギターやチェロなどの分野にも広げている。
腕の良さは折り紙つきでアメリカ本土からも修理依頼があると言う。
ウクレレについてはハワイコアにこだわっている。
その為コアについては非常に詳しい。コアの伐採については厳しく制限されて
いるがここハワイ島では比較的許可が出やすいと言う。
それは島民が常識をもって接しているからだと言う。
クリス・カワカミによると「木自体がくねくねと曲がっているものは、
揺らめいた表情が出る」と言うのだ。従って同じ木目はなくウクレレ自体にも
特徴が出る。それがコアなのだ。
このウクレレ1丁2000ドル前後であるが、果たして高いか安いかはあなた次第だ。






奥田 民生(1965年生まれの46歳 )は、広島県出身のシンガー
ソングライター及びユニコーンのメンバー。
音楽プロデューサーとしても活動している。
1987年、ロックバンド「ユニコーン」のボーカリストとしてデビュー。
「大迷惑」「働く男」「すばらしい日々」など、数々のヒット曲を世に
送り出し、バンドブームの寵児ともいわれた。 バンドは1993年に解散。
その後、約1年間の充電期間を経て、1994年からソロ活動を開始。
以降、ソロ活動の傍ら、女性デュオ「PUFFY」のプロデュースや、
井上陽水とのユニット「井上陽水&奥田民生」をはじめとした様々な
ミュージシャンとのコラボレーションなど、多方面で活動している。
代表曲は、「愛のために」「イージュー★ライダー」「さすらい」
「マシマロ」など。
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ハワイ島に多く見られるオヒア(木)とレフア(花)については
悲しくもせつない恋のストーリーが伝えられている。
この植物は生命力が強く、風にのって溶岩の中でも育つ。
特に雨の多いハワイ島の環境に向いているらしい。
ハワイアンミュージックの中にも多く登場する。
その昔、お互いとても深く愛し合っていた若い恋人がいた。
女性の名前は「レフア」、男性の名前は「オヒア」と言った。
この二人は本当に深く愛し合っていたのだ。
オヒアはとてもハンサムな男性で一目で女神ペレに気に入られ結婚を
望まれたのだ。
しかしどんなに女神ペレが彼を振り向かせようとしてもオヒアは応える
ことはなかった。それは心からレフアを愛していたからなのだ。
ペレは大いに怒り、怒り狂った末にオヒアを木に変えてしまったのだ。
それが今オヒアと言う木になっている。
これを知ったレフアは大変嘆き悲しみ彼女は毎日オヒアの木に腰かけ
泣き続けた。その姿を見てペレは初めて自分の過ちに気付き、
レフアを花に変えオヒアの木の上に付けたことでオヒアの木、レフアの花
と呼ばれるようになった。
レフアの花を摘むと雨が降ると言う言い伝えがある。
レフアが離れ離れになってしまうと思い、泣くからだと言われている。
「プアリリレフア」と言うフラの名曲があるが、個人的には赤いドレスで
笑顔ではなくせつなくも悲しい表情で踊ってほしいと願う。





笹本 玲奈(1985年生まれの26歳 )は日本のミュージカル女優である。
千葉県出身。青山学院初等部を経て青山学院高中部を卒業。
母は宝塚歌劇団卒業生の四季乃花恵。デビュー以来、舞台を中心に活躍。
1998年、セブンイレブンPRESENTS ザ・ミュージカルアイドル
オーディション NEWピーターパンでグランプリ受賞。
その後ミュージカル「ピーターパン」の5代目主演を務める。
全149公演は10代主演女優として日本ミュージカル史上最高記録。
2007年、ミー&マイガールのサリー・スミス、マリー・アントワネット
のマルグリット・アルノーの役の演技に対して第32回菊田一夫演劇賞受賞。
2008年、「ウーマン・イン・ホワイト」で第15回読売演劇大賞優秀
女優賞および杉村春子賞受賞。













《クムフラ》フランク・カヴァイカプオカラニ・ヒューエット。
彼はフラの伝道師の他にもうひとつの顔を持つ。
それは女神ペレの直系の子孫であることだ。その為人々は彼を神と崇める。
ハワイはビッグアイランドと呼ばれているハワイ島。
キラウェア火山がありハレマウマウ火口にペレが住んでいると言う。
溶岩の流失はペレの仕業とされている。
これについてヒューエットは次のように述べている。
ハワイに住む神々たちはタヒチのボラボラから移住してきた。
彼女たちが移住したのはペレと姉との間で争われた長い闘争が原因
と言われている。姉の名前はナマカオカハイと言った。
興味深いことにナマカオカハイは海の女神でペレは火の女神だ。
何故彼女たちが争ったのか、答えは明白。
火と水は混じり合わないからだ。これは今日とて同じ。
しかし皮肉なことに数百年もの間、火山の炎は海に流れ続け、
こんなに巨大な島になってしまった。万物を創造するためには、
たとえお互いに争っていようと両方の存在が必要なのだ。
彼は定期的に神へのチャントを欠かせない。今日も祈りを捧げる。











OKAMOTO'S(オカモトズ)は、日本のロックバンド。
2010年メジャーデビュー。
現メンバー
・オカモトショウ
ボーカル担当。元『ズットズレテルズ』。1990年生、ニューヨーク出身。
・オカモトコウキ
ギター担当。1990年生、練馬出身。
・ハマ・オカモト
ベース担当。1991年生、眼鏡、口髭が特徴。浜田雅功・小川菜摘の長男。
・オカモトレイジ
ドラムス担当。1991年生、二子玉川出身。無邪気で隠し事がない。
『THE PRIVATES』の延原達治の長男。幼少時は子役として活躍していた。
中学校からの同級生であった4名によって結成。全員が岡本太郎好きで、
ラモーンズのように全員がオカモト姓を名乗る。
1stアルバム『Here are OKAMOTO'S』リリース記念に行われた
2009年のライブをもってベースのオカモトマサルが脱退し、
ハマ・オカモトが加入。
2010年テキサス州オースティンで開催された
「SXSW(サウス・バイ・サウスウエスト)2010」に出演。
その後、全米6都市をまわるUSツアーを敢行。
2010年、ソニー・ミュージックエンタテインメント傘下
のアリオラジャパンよりメジャーデビュー。




中川 翔子(なかがわ しょうこ、本名も同じ1985年生まれの28歳 )は、
日本の女性マルチタレントである。「ショコタン」の愛称で親しまれている。
1990年、5歳の時に『地球戦隊ファイブマン』に出演。
これが真のデビューである。
1994年、9歳の時に父親の中川勝彦が白血病により死去。以後は母子家庭
となり母親の桂子によって育てられる。
2001年、ポポロガールオーディションでグランプリを受賞し、デビュー。
デビュー当初はジャッキー・チェン事務所に所属。
2002年、ミス週刊少年マガジン2002年に選ばれる。
2004年、フジテレビ系『考えるヒト』にスポット出演した際に卓越した
イラスト力を見せつけ、2005年の序盤に番組をマイナーチェンジした
フジテレビ系『考えるヒトコマ』ではレギュラー扱いで出演、出番を勝ち取った
形となった。その後TBS系『王様のブランチ』にレギュラー出演。
これがきっかけとなって一般的な知名度が上昇する。
歌、司会、グラビア・漫画・声優・ブログなど多方面での活躍を見せている
ことから、単なるアイドルやタレントではなくマルチタレントと分類される。
特に普段の生活を報告している自身のブログ『しょこたん☆ぶろぐ』
は圧倒的な人気を誇り、書籍化もされている。人気の理由としてはテレビや
ラジオでの親しみやすいキャラクターなども起因している。







坂本 冬美(本名同じ、1967年生まれの44歳 )は、
和歌山県出身の演歌歌手。
NHKの『勝ち抜き歌謡天国』で名人となり、審査員だった猪俣公章
の内弟子となる。マルシアは坂本の妹弟子にあたり現在でもとても
仲が良い。それまでは、地元・和歌山の梅干し工場で働いていた。
1987年に「あばれ太鼓」でデビュー。初期は同曲の他、「祝い酒」
「男の情話」「男惚れ」など男歌が中心だった。
1991年に細野晴臣、忌野清志郎とHISを結成。
アルバム『日本の人』発売。
2002年に持病の膵臓炎の治療専念など諸事情により、歌手活動を
含めた一切の芸能活動を休止する。休業前に自分の邸宅を猪俣の妻へ
売却して、その後実家の和歌山へ一年間休養を兼ねて戻った。2003年、
芸能活動の再開を宣言。同年、紅白歌合戦にも返り咲きを決めた。
2006年第3回ザ・ビューティー・ウィーク・アワード
「着物、アップ髪が最も似合う人」受賞。
その後は順調に活動している。























テレビのシネマチャンネルの番組表を見ていたら
「憧れのハワイ航路」が出てきた。
早速録画して観てみた。1950年(昭和25年)の制作である。
ボクの生まれる前の映画かな(?)
岡晴夫、美空ひばり、花菱アチャコ、古川緑波など豪華出演だ。
当時はもちろんハワイなどへは簡単に行けるはずもなく、
国民に夢を与えたと言っていいだろうと思う。
当時のハワイの様子が映っている。
ストーリーは次のようだ。
岡田秋夫(岡晴夫)と山口五郎(古川緑波)は、「うきよ」という小さい
飲み屋(花菱アチャコ経営)の二階に一緒に下宿していた。岡田は夜間
中学の英語の教師、山口は画を書いているが、東京都のある地区の公会堂
の設計図の懸賞募集に目下応募中という所で、何かにつけて助け合っていた。
岡田は音楽に関心を持って、ヒマさえあれば美しい声で歌を唄っていた。
そして彼はハワイで生まれて、母が死んでから父を残して日本の学校で
青少年時代を過ごしたが、戦争のため父親と消息は立ち消えとなって
しまっていた。一方「うきよ」の女将のみきは、初婚に失敗して二人の子供
を残したまま家出し、現在の亭主松吉と連れ添ったが、子供の事が忘れられず、
互いに再会を願っていたところ、偶然にも岡田が救った子供の花売り娘の君子
(美空ひばり)こそみきの子供であったが、姉の千枝子は母親の罪を難じ
名乗ることを許さなかった。山口は懸賞の30万円を夢みてダンサーのマリー
を愛していたが、彼の画く似顔絵はなかなか売れそうもない。千枝子が内職と
する輸出人形の取引先に稔が勤めており二人は相愛となっていた。妹の君子は
母親とは知らず毎日「うきよ」で花売りをしていたが女将のみきと亭主の松吉
は一日も早く親子の名乗りをあげたかった。ついにその日が来た時には、
山口はマリーにだまされ、久美子の好意がかえって30万円をフイにしたが
久美子の愛を受け取る事ができた。しかし、岡田は恋はあきらめても望みの
ハワイの父からの便りを受け取る事が出来た。
そして岡田は父のいるハワイへ旅立つ。
晩年の岡晴夫は長年のステージのライトで目をやられ、殆んど失明状態であったと
言う。そして55歳の若さで他界している。

バンドメンバーのKai君からウクレレを全部揃えたとメールが入る。
バリトン、コンサート、テナー、ソプラノの4種類だ。
彼はギターも弾ける。
これから全てのウクレレにピックアップ(音を拾い上げる機器)を
つけると言う。
ここでウクレレについておさらいしてみよう。
ポルトガルからの移民が持ち込んだブラギーニャと呼ばれる楽器
を起源とし、ハワイで独自に改良を重ねられて現在の形になったとされる。
高級なものにはしばしばハワイ特産のコアの木が材料として用いられる。
また、現在のウクレレを確立したのはマヌエル・ヌナスとされている。
ウクレレという言葉はハワイ語で「飛び跳ねる(lele)ノミ(ʻuku)」
という意味で、当時の人気奏者のあだ名から取られたとも、小さな楽器の
上で奏者の指が目まぐるしく動く様を表現したとも言われている。
ウクレレには4つのサイズがあり、小さいものから大きいものへと順に
ソプラノ、コンサート、テナー、バリトンと名付けられている。
バリトンウクレレはサイズ・スケールともにテナーギターと同一である。
またウクレレから派生した楽器として、8弦のタロパッチや胴の部分が
バンジョーと同じ構造となったバンジョーウクレレなどが存在する。
ソプラノ、コンサート、テナーは、一般に低音から高音へ順に、
G-C-E-A にチューニングされるが、実はG弦は一オクターブ高く
調弦されるために、その音程はE弦とA弦の中間に位置する。
このためダウンストローク、アップストローク共に高音弦から入ることと
なり、コード演奏時には独特の軽やかな響きが生まれる。
これをハワイアンコードと呼んでいる。
ソロ演奏においては音域の狭さをカバーするためにGを1オクターブ下げた
Low-Gというチューニングも多用される。
アメリカ合衆国では、現在よりも1音高いA-D-F#-Bが標準とされた。
このチューニングは同国内では現在もしばしば使われることがある。
これをアメリカンコードと呼んでいる。
しかしこのチューニングは弦を強く張る為、安いウクレレでは不向きと
いわれる。日本流で言うと3万円以上のウクレレと言うことでしようか。
バリトンについては、ギターの高音側4弦と同様に
D-G-B-E にチューニングされることが多い。
















ハワイはオアフ島の南東にある街「マカハ」はサーフィンの
ビーチとして知られている。
ここは古代の昔から独特の波がサーフィンに向いているといわれ
年間を通して愛好者が訪れている。
ここを守っているのがバッファロー一族だ。
家長のバッファロー・ケアウラナと息子でプロサーファーの
ラスティ・ケアウラナである。毎朝起きてビーチの掃除をするのが日課だ。
そして船を出しその日のコンデションを見る。
息子のラスティは過去ロングボードのサーフィン大会で3回も優勝
している。
ここではこのことを「Legend:レジェンド(伝説)」と
呼ばれて守り神として尊敬されている。
過去リゾート開発や箱物を作る話があったが全員で反対し守り抜いた。
彼らは常に言っていることは「心技一体」がサーフィンに不可欠としている。
今日も家族一丸となってビーチキープに余念がない。











三木 たかし(1945年 - 2009年享年64歳)は日本の作曲家。
本名は渡邊匡(わたなべ ただし)。
歌手・女優の黛ジュン(本名:渡邊順子)は実妹である。
東京都出身。幼き頃は紙で書いた鍵盤をひいて遊んでいたという。
1960年代半ばごろに歌手を志して作曲家:船村徹に弟子入りするも、
船村から「君は作曲家の方が向いている」と云われ、方向転換する。
1967年、当時の売れっ子作詩家であったなかにし礼の推薦を受け、
「恋はハートで」(歌唱:泉アキ/クラウン・レコード)で作曲家デビュー。
1968年、実妹・黛ジュンに提供した「夕月」が66万枚のヒット。
1969年、「禁じられた恋」(歌:森山良子)が8週連続チャート1位の
大ヒット。自身の作品が初めてNHK紅白歌合戦で歌唱される。
1971年、歌手・松平マリ子と結婚。(その後離婚)
その後、阿久悠とのコンビで西城秀樹に「君よ抱かれて熱くなれ」から
「ボタンを外せ」まで7作品連続して楽曲を提供。
1977年、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」が大ヒット。
第19回日本レコード大賞・中山晋平賞(後の作曲賞)を受賞する。
盟友である荒木とよひさとのコンビでテレビ朝日系『欽ちゃんのどこまで
やるの』の企画ユニット「わらべ」に、「めだかの兄妹」や
「もしも明日が…。」などの楽曲を提供。
テレサ・テンに提供した「つぐない」、「愛人」、「時の流れに身をまかせ」
がいずれも有線を中心に大ヒット。
1988年、現在も放送が続く日本テレビアニメ『それいけ!アンパンマン』の
オープニングテーマソング「 アンパンマンのマーチ」とエンディングテーマ
「勇気りんりん」(共に作詞は作者のやなせたかし)を提供。最近は、
小学校の音楽の教科書に載るなど童謡としても親しまれている。
1994年に発売された坂本冬美の「夜桜お七」がロングヒット。
同年の第36回日本レコード大賞・作曲賞を受賞する。
2004年からは日本作曲家協会理事長を務める。また、日本レコード大賞
制定委員や事務局長も務める。
2005年に紫綬褒章受章。また同年、第47回日本レコード大賞の
吉田正賞を受賞する。
2006年、下咽頭がんで声帯の一部を切除、その後声を失ってしまう。
2009年岡山県岡山市の病院に於いて生涯を閉じた。
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美川 憲一(本名:百瀬 由一(ももせ よしかず)、1946年
生まれの65歳 )は、長野県諏訪市出身の演歌歌手、タレント。
芸名の「美川」は岐阜県を流れる木曽川・揖斐川・長良川の3つの
美しい川にちなむ。美川自身は長野県出身で2歳から東京に住んで
おり岐阜とは何の縁もなかったが、デビュー当時のプロダクション
の担当者が岐阜出身だったことから岐阜に由来する芸名を付けられた。
「川のように息が長く、美しい歌手であるように」という意味が込め
られている。
1966年「柳ヶ瀬ブルース」が120万枚を売り上げるヒット。
1967年「新潟ブルース」発売。売上枚数は多くなかったがカラオケ
で広く歌われるようになりリクエストランキング1位を獲得した。
1968年、「釧路の夜」がヒットし『第19回NHK紅白歌合戦』
に初出場。
1970年、「みれん町」「大阪の夜」「おんなの朝」と立て続けに
ヒット曲を出す。
1972年、「さそり座の女」がヒットし、当時の星占いブームの
きっかけとなった。
1977年に大麻取締法違反で逮捕されヒットに結びつくことはなかった。
1985年に大麻取締法違反で2度目の逮捕。判決は執行猶予3年。
大麻事件以降はテレビの出演回数も減り、スナックでの営業や地方の温泉
などでの公演が続いた。
その後はものまねブームなどでカムバック、現在に至る。



男声コーラスグループの草分け「ダークダックス」のメンバーで、
「パクさん」の愛称で知られる高見澤宏(たかみざわ ひろむ)
さんが7日午後、心不全のため神奈川県内の自宅で亡くなりました。
77歳でした。
高見澤さんは、昭和26年に慶応大学の合唱団の仲間で結成された
男声コーラスグループ「ダークダックス」のメンバーで、最も高音
のテナーを担当し、パクさんの愛称で知られていました。昭和31年に、
ロシア民謡「ともしび」を歌って注目を集め、その後も日本の唱歌や
ジャズ、ポピュラーなど幅広いレパートリーと美しいハーモニーで、
男声コーラスグループの草分けとして広く親しまれ、NHKの紅白歌
合戦に15回出場したほか、平成5年には紫綬褒章を受章した。
高見澤さんは、おととし10月に東京で開かれたリサイタルに出たあと、
去年2月に体調を崩し、入退院を繰り返していたが、7日午後、
心不全で亡くなった。
奥様は故萬屋錦之助の妹にあたる。
ご冥福をお祈り致します。

















新井 満(あらい まん、1946年生まれの64歳)は、日本の作家、
作詞作曲家、歌手、写真家、環境映像プロデューサー、絵本画家、
長野冬季オリンピック開閉会式イメージ監督など。 新潟県新潟市生まれ。
本名:滿(みつる)。
上智大学法学部卒業。上智大学グリークラブに所属。その後電通に入社し
環境ビデオ映像の製作に携わるかたわら、小説・歌などの創作活動に入る
も定年退職した。
2001年、妻をがんで亡くしたふるさとの友人を慰めるために
『千の風になって』を作曲。作曲にあたって原詩である
『Do not stand at my grave and weep(直訳:私のお墓で佇み泣かないで)』
を訳して自ら歌い、CDに録音したものを30枚作成。友人や希望者に配布した。
しかし、曲を聴きたいという希望者が膨れあがり、2003年 に朝日新聞の
天声人語で取り上げられると問い合わせが殺到。急遽ポニーキャニオンから
CDが発売され、訳詩を掲載した本も講談社から発売された。この曲は秋川雅史、
加藤登紀子、スーザン・オズボーン、新垣勉、ウィーン少年合唱団などプロの
歌手たちにカバーされ、100万枚を越える大ヒットとなった。
この英語詩は諸説あるがアイルランドの兵士が母にあてた手紙の中にこの詩が
あったとされているが、真相は不明である。
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
あの大きな空を
吹きわたっています
a thousand windsAuthor Unknown
(1000風)
Do not stand at my grave and weep;
I am not there, I do not sleep.
I am a thousand winds that blow.
I am the diamond glints on snow.
I am the sunlight on ripened grain.
I am the gentle autumun's rain.
When you awaken in the morning's hush,
I am the swift uplifting rush
Of quiet birds in circled flight.
I am the soft stars that shine at night.
Do not stand at my grave and cry;
I am not there, I did not die.
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瀬川 瑛子(本名:清水 瑛子、1948年生まれの63歳)は東京都
渋谷区出身の演歌歌手・女優。歌手・瀬川伸の次女。在日朝鮮人。
1967年デビュー。当初は瀬川 映子の芸名で活躍。歌手活動の他に、
その柔和な人柄から歌番組以外のバラエティー番組にも多数出演している。
1980年「命くれない」がヒットにつながりメジャーデビューを果たした。
初めてものまねされた時、父の瀬川伸から「ものまねされて、
初めて一流の歌手だと認められたこと」と教わったため、
自分がものまねされる事を非常に喜んでいた。
料理が非常に上手く、特にテレビ朝日系『愛のエプロン』での活躍ぶりが
大きいが、中華料理が苦手。円広志とはかなりの遠縁ではあるが親戚である。







ロカビリー歌手の山下敬二郎さんが5日午後7時55分、腎不全のため
東京都町田市内の病院で死去した。71歳、東京都出身。
父親は落語家の「柳家金語楼」である。
初期ドリフターズのメーンボーカルを務め、平尾昌晃、ミッキー・カーチス
とともに「ロカビリー三人男」と呼ばれ、一世を風靡した。
◆昨年12月26日ディナーショーでがん告白
所属事務所によると、山下さんは昨年11月17日に体調を崩して入院。
診断の結果、末期の胆管がんであることが判明した。闘病生活を続けながらも、
生きがいであるライブ開催にこだわり、昨年12月26日に栃木県佐野市の
ホテルで開かれたディナーショーに予定通り出演した。
当時は食事を摂れず、点滴のみという状態で、車いすで会場に向かったが、
妻で歌手の山下直子(45)さんが代理で前半のステージをこなした後、
山下さんがステージに登場して、ファンにがんを告白。
当初は10分の予定だったが、「ブルーハワイ」など4曲を40分にわたって、
パワフルに熱唱し関係者を驚かせたという。
5日は自宅近くの病院に転院。昼ごろまでは元気な様子だったが、
尿の通りが悪くなり、処置を受けた後に容体が急変。最後は妻・直子と長女に
見守られながら、眠るように息を引き取った。
ご冥福をお祈り申し上げます。



































1980年12月8日午後10時50分、ジョン・ウィストン・レノン
が暗殺された。享年40歳であった。あれから30年の歳月。
場所はニューヨークのマンハッタンにある自宅アパート
(ダコダ・ハウス)の玄関で仕事の打ち合わせから帰った所で待ちふせに
あったのだ。妻のオノ・ヨーコも一緒であった。
背後から5発発射されこのうち4発が命中し、即死であった。
犯人はマーク・チャップマンと言う25歳の男性で、犯行の後ピストルを
路上に投げ捨てその場に座り込み平然として本を読んでいたと言う。
この本が後で問題になってくるのだが。
当初犯行の動機はマスコミが一斉に「熱烈なファンで独り占めしたかった」
などと報じた。しかし彼の自宅などを調べてみると、レノンの写真や
レコードなどは1枚もなく、彼自身も有名になりたくて誰でも良かったと
供辻している。
その中でもレノンがキリストを中傷したことは許せないとしている。
マーク・チャップマンは比較的裕福な家庭に育った。父親は軍人で母親は
ナースであった。しかし16歳の頃より麻薬におぼれその後は改心するも
キリストの
福音主義に傾倒しYMCAに通うようになった。そして24歳にして日系人の
グローリア・ヒロコ・アベとハワイで結婚、ハッピーエンドかと思われたが、
キリスト
への依存は益々熱を帯びていった。この時期紹介されて読んだのがジェローム・
デイヴィッド・サリンジャー著「ライ麦畑でつかまえて」でこの本に感激して
自分自身を主人公(ホールデン・コール・フィールド)に置き換えたほどであった。
この本は1951年発売の青春小説で一人の青年の成長を描き、若者の視点から
現実のギャップをからめている。
一方ではレノンはイギリス国籍でもあったが反戦活動に積極的に参加するようになる。
さらにわいせつ画像を送りつけたり、マスコミを読んでベッドでSEXしたりで
やりたい放題の変人ぶりに当局も黙っているわけにもいかなかった。
これらのことが当時のニクソン大統領やレーガン大統領などに目をつけられていた
とも言う。これがCIA説である。
それを裏付けるように「好ましからず人物」として国外退去勧告を受けていた。
彼はイギリスで麻薬所持で夫婦で逮捕されている。
しかし裁判で控訴するなどして引き延ばした結果、政権も交代し晴れてアメリカの
市民権を得た。
レノンが射殺した犯人は当時のアパートの番人と言う説もあり、真相はヤブの中だ。
いろいろな状況証拠からあくまでも国が関与したことが有力になっている。
レノンとヨーコとの息子「ショーン・レノン・タロー」はイギリスでミュージシャン
として現在活躍している。
イマジン(想像してごらん)
想像してごらん 天国なんて無いんだと
ほら 簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし
ボクたちの上には ただ空があるだけ
さあ想像してごらん
みんなが ただ今を生きているって・・・






南 こうせつ(本名:南 高節、1949年生まれの61歳)は、
大分県大分市出身のフォークシンガー・元かぐや姫のリーダー。
妻はエッセイストの南いくよ(南育代)。
大分市の曹洞宗勝光寺の生まれ。明治学院大学社会学部中退。
寺は次兄・光洋が継ぐ予定だったが早世し、現在は、長兄が住職
を務めている。
1970年『最後の世界 / むなしいうた』でソロデビュー。
同じ年に「南高節とかぐや姫」としてベース奏者、大島三平らと
『酔いどれかぐや姫』「神田川」などをリリース。
全日本歌謡選手権に出場。4週勝ち抜いたところで、その目的を
果たしたということもあり翌週以降の出演辞退を申し出た。
その後山田パンダ、伊勢正三と新生かぐや姫 を結成。かぐや姫
解散後ソロ活動。
1980年代はサマー・ピクニックというオールナイトの野外
コンサートを毎年九州で中心となって開催し、多数の観客を集めた。
2009年には、こうせつの還暦記念としてつま恋でサマー・
ピクニック・コンサートが行われた。
その後の活躍は周知の通り。
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カウアイ島はオアフ島の西約110kmにあり、その誕生はおよそ
500万年前と推定されハワイ諸島の中でもっとも古い島。
グランドキャニオンを彷彿させるワイメア・キャニオンや断崖絶壁が続く
海岸線ナパリ・コーストは長年わたる浸食によって造られたもので、
その壮大な景観は訪れる人々を感嘆させる。
また島の中央部にあるワイアレアレ山は世界一降水量が多いことで有名で、
雨が多いだけに緑も豊かで様々な熱帯植物が生い茂り、ガーデン・アイランド
とも呼ばれている。
フラ発祥の地としても知られている。従ってフラハラウが盛んな街でもある。
ここでは定期的に太陽に祈りを捧げている。そしてその日に感謝するのだ。
その場所こそが「ワイルア・ヌイ・アポ・アノ」と言う場所なのだ。
別名「聖なる大ワイルア」とも言う。
朝日を拝みながら男性はマロ(HUNDOSHI)と呼ばれる正装で踊る。