








ハワイには西欧文明が入ってくるまで古くから「カプ」と呼ばれる階級制度があった。
・アリイ・・・王様とその親族
何れもアリイと表され、酋長や王族といった意味で用いられている。古代のハワイでは
アフプアアによって階級が決定されており、アリイ・ヌイやアリイ・アイなど細かい
呼び名が決められていた。
・マカイナナ・・・平民
この2つの階級に分かれていた。
歌手のIZ(イズラエル)はマカイナナの出身であったのだ。従って中産階級でなく常に気に
かけていて歌にも表れている。
カプ(ハワイ語:Kapu)とは禁忌を意味するハワイ語の語彙。
歴史をたどると、ハワイを含む太平洋文化圏で広く信じられてきたマナと呼ばれる神聖
な力に対する畏怖から生まれた絶対的な戒律であり、これを破った者は通常死をもって償
うこととされた。カプは階級や職業、性差などによって衣食住全てに渡って細かく定めら
れており、1819年にカメハメハ2世の摂政カアフマヌによって廃止されるまで続いた。
現代のハワイでは、これから転じて「強い禁止」を意味するスラングとして用いられるこ
ともある。ウォルト・ディズニー・カンパニーのアニメ映画『リロ・アンド・スティッチ』
では、主人公リロが部屋の扉にKAPUと大書された張り紙を掲げることで、絶対に入るなと
いう意思表示をするシーンが描かれた。
平民は、もとはそう多くなかったという説もある。ハワイでは常に戦争が起きていたが、
戦争をして負けた際、王そのものは殺されたものの、その周辺の人々は平民として離散した
結果、数が増えたと言う。犯罪を犯して階級を剥奪された酋長や貴族も平民になったのだ。
平民は、コノヒキや酋長によっていつでもその土地から追い出される運命にあり、逆に、
そのアフプアアでの暮らしがつらい場合はいつでも別のアフプアアに移動できるという権利
も持っていた。












ヨシダ ダイキチ。1996年からインドにてシタールとインド音楽を学ぶ。
世界的に活躍するウスタッド・シュジャート・カーン/ustad shujaat khanに師事。
YOSHIMI(ボアダムス/ooioo)とのユニット「saicobaba」を結成し5枚のCDをリリース。
様々なアジア楽器のポリリズムと歌唱法を取り入れた「AlayaVijana」を結成し
5枚のCDをリリース。シタール5~30台を使ったユニット「sitaar tah!」を結成し
ニューヨークachiverecord/importantrecordより2枚のCDをリリース。
日本のレーベルからオリジナルアルバム「Tah!」をリリース。UAのアルバム
「ファティマとセミラ」「テュリ」を楽曲提供、プロデュース。奄美民謡の朝崎郁恵の
アルバム「はまさき」を、インド楽器、バリ・ガムランなど多彩なアジア音楽でアレンジ
したアルバムをプロデュース。
ギルバート・オサリバン(Gilbert O'Sullivan、1946年生まれの66歳 )は、
アイルランド出身の歌手、シンガーソングライター。
本名:レイモンド・エドワード・オサリバン (Raymond Edward O'sullivan) 。
代表曲に「アローン・アゲイン」(Alone Again - Naturally)や「クレア」
(Clair)などがある。出身はアイルランドだが育ったのはイギリスである。
大学在学中にバンド活動を始めた彼は、1960年代中盤に自らが作詞・作曲を手がけた
オリジナル作品のデモテープをあらゆる音楽出版社に売り込む。そして1967年CBSより、
シングル『Disappear』でデビューする。2年後の1969年、彼はトム・ジョーンズなどの
マネージャーとして知られるゴードン・ミルズの主宰するMAMレコードと新たに契約。
そして翌1970年、シングル「ナッシング・ライムド」 (Nothing Rhymed) をリリース。
この曲は全英シングルチャートで最高8位まで上昇するヒットになる。またこの曲が収録
されたアルバム『ヒムセルフ~ギルバート・オサリバンの肖像』 (Himself) は全英
チャートで最高5位をマーク、86週にわたってランクインするロングセラーとなり、
一躍彼はスターダムにのし上がる。1972年には、シングル「アローン・アゲイン」
(Alone Again - Naturally) が世界的に大ヒット。とりわけアメリカではビルボードで
6週連続1位、同年の年間シングルチャートでは2位を記録するほどの大成功を収めた。
同時期に発売されたアルバム『バック・トゥ・フロント』も全英で№1を獲得し、
その後彼は「ゲット・ダウン」 (Get Down)や「クレア」、「ウー・ベイビー」
などをはじめ、主に欧米と日本を中心に1970年代前半に、次々とヒットを連発した。
























立川 談志(1936年 - 2011年)は、落語家、落語立川流家元。
本名、松岡 克由(まつおか かつよし)。
1952年 - 東京高校を中退し、4月の16歳で5代目柳家小さんに入門。
本名の「克由」の一字を取って、柳家小よしと名乗る。
1954年 - 3月に二つ目昇進し柳家小ゑんに改名。寄席の他に日劇ミュージックホール
や新宿松竹文化演芸場にも定期的に出演し、コントや漫談も披露。
赤シャツにジーパン姿がトレードマークだった。
1962年 - 入門が5年も遅い古今亭志ん朝が、「36人抜き」で小ゑんより先に真打になり、
生涯最大の屈辱を味わう。
1963年 - 4月に立川談志を襲名し、真打に昇進。同時に小さん門下から真打に昇進した
のが5代目柳家つばめ。
日本テレビ『笑点』の企画を発案し、1966年5月から1969年11月まで初代司会者を務める。
後に、笑点放送100回記念では桂歌丸と異色漫才を行った。
政治家として参議院議員を1期、沖縄開発庁の政務次官を36日間務めた。
サイバー大学客員教授。
2011年11月21日家族に看取られて死去。死因は喉頭癌。75歳没。
立川 談志は、落語家の名跡。7代目の死後は空き名跡となっている。
一青 窈(ひとと よう、1976年生まれの37歳 )は、女性歌手・作詞家・女優。
慶應義塾大学環境情報学部卒。姉は舞台女優の一青妙(ひとと たえ)。
父は台湾人、母は日本人。台湾語の漢字名は顏窈(イエン・ヤオ)で、「顏」は父親の姓。
「一青」は母親の姓。父は金鉱経営で成功し、台湾の5大財閥に数えられた顔一族の
長男・顔恵民であった。戦前から戦後にかけて日本に長く滞在していた父と母が出会い、
台湾で妙と窈が生まれた。
幼稚園卒園後に父を台湾に残し、母、姉と日本で生活することとなる。小学生2年の時に
父が癌で死去。以降、母の姓の一青を名乗る。小学校高学年の頃に宮沢賢治の詩に触発され、
詩を書き始める。初等部から森村学園に通い、美術部とバスケットボール部に所属、
生徒会では書記を務める。高校生の時に母も癌で亡くす。
2006年、日本人アーティストとして初めて、カーボンオフセットライブを逗子海岸の音魂
(Otodama Sea Studio)で行い、現在まで毎年継続している。ベストアルバム『BESTYO』
の初版もカーボンオフセットしている。台湾でもCD・DVDが発売されており、『もらい泣き』
『大家』『月天心』のジャケットは台湾オリジナル仕様となっている。
台湾のキリンビールのCMにも出演し、台湾の愛唱歌『望春風』が使われた。
2007年1月、音楽プロデューサー・小林武史との不倫疑惑が報じられる。














「バーンスリーはインドの竹でできた横笛。とても柔らかい音からシャープで
鋭い音まで幅の広い音色を表現出来るのが特徴。日本の民謡や演歌、ジブリの名曲
などをバーンスリーで演奏することもできる!
工房は南インドのタミルナードゥ州ティルヴァンナーマライ市にある。
山の高い波動を受けながら、バーンスリーが作られる。
ここで生まれる笛は、すべて北インド仕様なのだ。
職人は、以前、主に北インドの聖地ヴァーラーナシー(ベナレス)を中心に製作してきた。
ティルヴァンナーマライ市に移り住んだのは、仕事や音楽に関することではなく、
パートナーともども、ラマナ・マハルシの教えに魅かれたという理由からだ。
世界中から「本当の自分に目覚める」ため、瞑想者や求道者が訪れる、
このアルナーチャラ山の麓。
もちろんミュージシャンも多く、NORI VENUGOPALの笛は、そうした皆さんの高い評価を
得て育ってきたのだ。
「バーンスリーはインドの竹でできた横笛。とても柔らかい音からシャープで鋭い音まで
幅の広い音色を表現出来るのが特徴。日本の民謡や演歌、ジブリの名曲などをバーンスリ
ーで演奏することもできる!
日本の第一人者「寺原太郎」(バーンスリー奏者)
1968年千葉県生まれ。中学、高校時代よりブラスバンドでトランペットを吹き、大学在学
中はビッグバンドスタイルのジャズトランペットを吹く。その一方でアジアの芸能にも
興味を持ち、ガムラングループでスリン(笛)を、雅楽グループで龍笛を学ぶ。
97年よりインド音楽への理解をさらに深めるため、楽器の枠を越え、巨匠Pt.ニキル・
ベナルジーの弟子であるアミット・ロイ氏に師事。
現在は日本全国で精力的にインド古典音楽の演奏活動を行う一方で、Yae(ボーカル)、
常見裕司(ウード)をはじめ、インド舞踊やガムラン、邦楽、ジャズ等とのコラボレ
ーションも行う。


















ミャンマーと言えば軍事政権の厳しい取り締まりで弾圧されてきた。
今月初めに、アウン・サン・スー・チー氏が初めてミャンマーの国政選挙で当選し、
彼女自身も海外にも出られるようになりようやく民主化が実現しつつある。
文化面ではパゴダ(黄金塔)を中心とした仏教国でもある。
ミャンマーのアイドルグループME N MA GIRLS(メンマー・ガールズ)の誕生も
そのあらわれでもある。若い女の子5人で構成されている。
メンマーとは「あなたと私」と言う意味だと言う。
全員が大学(専攻は夫々)を卒業しているインテリでもある。
これに目をつけたオーストラリア人の「ニコル・メイ」がプロデューサーとして
育てた経緯がある。
20数年前にアウン・サン・スー・チー氏が初めて自宅に軟禁された頃に、
彼女たちは生まれている。
つまり、彼女たちは生まれてからずっと、自由を知らないで育った世代なのだ。
今までは検閲や逮捕を恐れて、政治的な言動は一切さけていたが、自由にと叫ぶことが
できたことが、本当にうれしかったようだ。
歓喜に沸いたミャンマーで、彼女たちは自由の素晴らしさを実感し始めている。
先ごろタイのバンコクで初の海外撮影を行ったが、あまりの大きさに戸惑ったと
言う。
日本では当たり前のことが、ミャンマーの人たちにとっては当たり前ではないのだ。
スポーツや芸術関連の定期刊行物は、事前の検閲を受ける必要がなくなったようで、
政治関係の刊行物は、未だに事前検閲を受けなければいけないようであるが、
彼女たちは、新しい曲をリリースした。
いずれ日本にもやってくるでしょう




















フリッグ Frigg
北欧伝統音楽の名家の新世代ミュージシャン達により結成され、2002年にデビュー。
リーダーのアンティを含むメンバーの3名が、フィドルの伝統音楽で有名なフィン
ランドのオストロボスニア地方カウスティネンの音楽名家ヤルヴェラ出身。
そこは代々、冠婚葬祭で演奏するペリマンニ(農民音楽)文化を世界的に紹介した
パイオニア的なグループJPP(ヤルヴェラ村の若い伝統音楽家という意の訳、
80~90年代に活躍)を輩出した土地としても知られる。そこで物心つく前から楽器
に親しんで育った、JPPのマウノ・ヤルヴェラの娘アリーナ、息子エスコと甥のアン
ティを中心に、フリッグが結成される。
フリッグは、伝統音楽とクラシック音楽教育に裏付けされたハイスタンダードな演奏
技術を持ちながら、明るくエンターテイニングなステージを魅力とし、伝統を現代進
行形の音楽として世界に広める事を掲げる北欧伝統音楽の次世代を担う新星!
その新しい音楽性は「ノードグラス」(ノルディック・トラッドとブルーグラスを併
せた造語)と呼ばれている。そのエネルギー溢れる演奏を伝えるエピソードとして、
アメリカツアー中ラジオ番組に出演した際、あまりに躍動感溢れる素晴しい演奏に、
生放送であるにも関わらず観客からのアンコールの声が鳴り止まなかったという話が
あるほど。バンド名の「フリッグ」とは、北欧神話に登場する、愛と豊穣の女神の名前
にあやかったもの。
テーマ:お気に入りアーティスト - ジャンル:音楽

















林 英哲(はやし えいてつ) 和太鼓奏者。
1952年広島生まれの60歳。『佐渡・鬼太鼓座』『鼓童』の創設以来の
トッププレーヤーとして11年間活動後、独立。'84年には初の和太鼓ソリスト
としてオーケストラ作品でカーネギーホールデビュー。
かつてない高度なテクニックと体力を要する大太鼓ソロ奏法の創始者として、
国の内外で多彩なコンサート活動を展開。ジャズや民俗音楽、舞踏、美術など
ジャンルを超えた共演者も多い。近年では国内各地のイベント等でプロデュ-
サ-としての仕事や映画、演劇、CM,創作太鼓のための委嘱作品などの作曲、
指導も多数。エッセイ等の執筆も多く、著書に「あしたの太鼓打ちへ」等がある。
こうしたこれまでの多彩な演奏・創作活動が評価され、第47回芸術選奨
文部大臣賞(大衆芸能部門)を受賞。また2000年春より国立三重大学の
客員教授を務める。
ファドは、ポルトガルに生まれた民族歌謡。
ファドとは運命、または宿命を意味し、このような意味の言葉で自分たちの
民族歌謡を表すのは珍しい。1820年代に生まれ、19世紀中ごろにリスボンの
マリア・セヴェーラの歌によって現在の地位を得た。
イタリアにカンツォーネ、フランスにシャンソン、アルゼンチンにタンゴ、
ブラジルにサンバがあるように、ポルトガルにはファドがある。
主に「Casa de Fado」と呼ばれる(または「Casa do Fado」)レストラン
などで歌われる大衆歌謡で、主にポルトガルギター(ギターラ)と現地では
ヴィオラと呼ばれるクラシック・ギター(スチール弦使用)、
(時には低音ギター(ヴィオラ・バイショ)が加わる場合もある)で伴奏される。
日本では、ファドは女性が歌うものとの認識が強いようだが、実際には性別に
関係なく歌われる。また、ファドは暗く悲しいものだという誤解をもって紹介
されることも多いが、我が町を賛美したり、街のうわさ話などを題材とした陽気
なファドも数多くある。











奥田 民生(おくだ たみお、1965年生まれの47歳)は、日本のシンガーソング
ライター及びユニコーンのメンバー。音楽プロデューサーとしても活動している。
広島県出身。
1987年、ロックバンド「ユニコーン」のボーカリストとしてデビュー。 「大迷惑」
「働く男」「すばらしい日々」など、数々のヒット曲を世に送り出し、バンドブーム
の寵児ともいわれた。 バンドは1993年に解散。その後、約1年間の充電期間を経て、
1994年からソロ活動を開始。 以降、ソロ活動の傍ら、女性デュオ「PUFFY」の
プロデュースや、井上陽水とのユニット「井上陽水奥田民生」をはじめとした様々な
ミュージシャンとのコラボレーションなど、多方面で活動している。 代表曲は、
「愛のために」「イージュー★ライダー」「さすらい」「マシマロ」など。






トーマス・ドルビー(Thomas Dolby、1958年生まれの54歳)は、
イギリス ロンドン出身のミュージシャン 、音楽プロデューサー、および発明家。
トーマスの父親、マーティン・ロバートソンは国際的にも名の通った古代ギリシャ
に関する芸術と考古学の教授職に就いていて、ロンドン大学とオックスフォード
大学で教鞭をとっていた。そのため青年時代にはギリシャとフランスに住んで、
働いていた時期がある。トーマスは1988年に女優のキャスリーン・ベラーと結婚
している。
トーマスはニュー・ウェイヴとポップ、楽器ではシンセサイザーなどの電子楽器類を
得意とするミュージシャンだが、幅広い音楽ジャンルにも対応している。
彼が作り出した音楽の中でヒットした作品の中にはアルバム『The Golden Age of Wireless』
に収録されていて、サンプリング音源を多用し、ビルボード・ホット100で最高位5位を
記録した「彼女はサイエンス (She Blinded Me With Science) 」や、『ハイパーアクティブ』
『フィールド・ワーク』(坂本龍一と共作)などがある。
現在も精力的にライブ活動を行っている。


















三重県生まれ、世界一周28カ国を515日間かけて一人で渡り歩き、各地でLIVEを行い、
世界の音楽と文化を体感。
『インティ ライミ』とは南米インカの言葉で『太陽の祭り』を意味する。
帰国後、自らのソロ活動の他、コーラス&ギターとしてMr.Childrenツアーサポート
メンバーに抜擢され、2009年2月から行われた全国アリーナツアー、
さらに11月より行われた5大ドームツアーにも帯同し知名度を上げることになる。
2010年4月、UNIVERSAL MUSIC/UNIVERSAL SIGMAよりメジャーデビュー
シングル「カーニバる?」をリリース。翌月に2ndシングル「タカラモノ~
この声がなくなるまで~」を2ヶ月連続リリース、累計80万DLを超えるロングヒット
を記録し、レコチョクアワード2010上半期の着うたフル部門/新人アーティスト
ランキングで堂々の1位に輝く。7月7日に1st アルバム「Shall we travel??」を
リリースし、12月には男性ソロシンガーとしては今世紀最速となるメジャーデビュー
から8ヶ月での武道館公演をソールドアウトさせた。
デビュー2年目の2011年2月には4thシングル「今のキミを忘れない」をリリース。
携帯電話のCMに起用され、85万ダウンロード越えてこれまた大ヒット。
その後4月に5thシングル「Brave」をリリースし、その歌詞からプロスポーツ界に
大きな反響を呼んだ。5月には2ndアルバム「ADVENTURE」をリリース。
オリコン初登場3位を記録し、3週連続トップテン入りの大ヒットを記録。
6月からは全国ツアーを行い、その後6thシングル「Hello」をリリース。
秋には全国で学園祭ツアー行い、12月にはクリスマスパーティー称して代々木第一
体育館12000人を即完させるなど、2年目のジンクスなど微塵も感じさせない活躍で2年目
を締めくくった。





















カービー福永はハワイ在住の日系4世で、プロサーファー及びカメラマンでもある。
主に雑誌等の写真を担当している。ハワイ・サーフィンに関する情報サイトgo-naminori
(NAMINORI)を運営。20年ほど前から日本でずっとサーフィンをしていて、
ROXYのKelia Monizの伯父にあたる。
カービーはMBAを首席で卒業した。学校の成績はいつもオールA、奨学金ももらい、
その当時の周りの友達は弁護士やドクターになった。そして数億円もするおうちを持って
いるのにも関わらず、サーフィンをしてビジネスをしているカービーの人生が羨望の眼
で見られている。。それぐらい毎日が充実していて、ハッピーで、しあわせに過ごして
いるカービー福永の人生。カービーは20代前半の頃、初めて日本に来た。よく日本語も
わからないまま。人と人との出会いを大切にしている。
2011年3月11日の東日本大震災の時も真っ先に東北へかけつけ、ボランティアに精
を出して喜ばれている。自分には日本人の血が流れていることへのこだわりが強いのだ。
これからも年数回日本行を予定している。










『SUMMER/AUTUMN RECORDINGS』が、爽やかなそよ風となって現在もジワジワと
広がりを見せている英国・ブリストルの女性シンガー・ソングライター
RACHAEL DADD(レイチェル・ダッド)。
英国ならではの曇り空サウンドに、JONI MITCHELLを連想させる澄みつつ芯のある
歌声は、楽器が増えバラエティを増したアレンジの中で、いっそう豊かに響きわたる。
現地で交流の深いMOVIETONE~CRESENT、SJ ESAUらの活躍で盛り上がりを見せる、
新世代サイケデリック・フォークの中心的人物のひとりだ。
08年1月から日本に長期滞在、2月からはギタリスト川手直人と全国ツアーを行ない、
またアートワーク/雑貨のワークショップも開催予定……と、今後の草の根な広がり
も期待したい。
日本人ミュージシャン「ICHI」と結婚していて、いつもコンビでライブを行っている。
「箱根八里」(はこねはちり)は、1901年に発行された「中学唱歌」に初出の唱歌である。
鳥居忱(とりいまこと)の作詞、滝廉太郎の作曲による。
題名の箱根八里とは、旧東海道で小田原宿から箱根宿までの四里と箱根宿から三島宿までの
四里をあわせたもの。
東海道では大井川とともに難所として知られていた。箱根馬子唄でも「箱根八里は馬でも越
すが、越すに越されぬ大井川」とうたわれる。
歌詞は2連で1番に「昔の箱根」、2番に「いまの箱根」の副題がつけられている。
人口に膾炙している歌ではあるが、歌詞に登場する「函谷関」は中国の長安と洛陽の間、
長安のある関中の地への入り口を指す。
歌詞にマッチした勇ましい行進曲調のものである。
ハワイ島(ビッグ・アイランド)の西海岸、コナの町からすぐの街道沿いにある、
「てしま食堂」という日本食レストランの女将、手島静子さん。今年105歳になる。
名前でわかるとおり、日系移民の2世だ。地元の人々、そして彼女を慕ってこの店
へリピートする旅行者からは、「グランマ(おばあちゃん)」と親しみを込めて呼ばれている。
なぜ、手島おばあちゃんが人々に愛され続けているのか、アメリカ本土から毎年
彼女に会うために人々が大勢訪れるのか。日本人旅行者も大勢訪れる。
105歳、彼女の人柄、人生に触れたくてやって来る人が大半だ。
1907年に日系二世としてハワイ島コナで生まれる。両親はコナ周辺でコーヒー農園
を営む日系人向けのよろず雑貨屋を経営していた。
1929年、22歳で両親から店を受け継ぐ。その時コナにはまだ電気が通っておらず、
夫のふみおさんと共にヒロからトラックで氷を運んで、アイスクリームを手作りしてい
たという。ようやくコナに電気が通ったのは、第二次世界大戦の頃だった。
1940年、雑貨屋を日本食レストランに。ボリュームたっぷりで愛情溢れる食事を食べ
させてくれる店として、今も昔もかわらぬ人気を誇っている。
静子さんは5人の子供、12人の孫を育て、25人の曾孫、そして7人の曾々孫(ヤシゥアゴ)がいる。
長男は82歳、長女は80歳になる。次女は74歳でガンで亡くしている。
総勢54人の家族でこのうち14人が食堂で働いている。
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