江戸中期ごろから流行した。当初女同士の取り組みで興行したが、
美人が少なく飽きられたため、男の盲人との取り組みを始めて評判になった。
大関・関脇などのシステムは男の相撲に準じており、しこ名には「姥が里」
「色気取」「玉の越(玉の輿の洒落)」「乳が張」「腹櫓(はらやぐら)」
「うば桜」などの珍名がみられる。
明治5年には、男女の取り組み・女力士の裸体が禁止されたため、シャツや
水着が使われることもあった(それまで男同様全裸にまわしなど、少なくとも
上半身は裸だった)。明治中期以降現れた複数の女相撲の一座には全国興行を
行う興行団もあったという。
大正10年から昭和11年にかけて一番盛大であった。
その後昭和30年代後半まで九州に女相撲の興行団が残っていた。
また第二次大戦後に生まれた「女子プロレス」はこれら女相撲の前身とも言われている。
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