



















日越外交関係樹立35周年記念交流事業「ハノイ・ホーチミン音楽祭」
2008年は日本とベトナムが外交関係を樹立させて35年という記念すべき年。
国際交流基金(ジャパンファウンデーション)は、その記念事業として、
ベトナム国内2都市(ハノイ、ホーチミン)にて、日本・ベトナム双方の
アーティストが競演する音楽祭を共催した。日本とベトナムの音楽を通した
交流により、両国の友好関係に資することが目的
です。主役はなんといっても杉様こと杉 良太郎さん。
彼は画家としての顔も持っている。その腕前も高い評価を得ている。
日程・会場:ハノイ公演:2008年5月24日 土曜日 20時 (国際会議センター)
ホーチミン公演:2008年5月26日 月曜日 20時(ホアビン劇場)
<日本側>
杉 良太郎 (日越特別大使、本音楽祭実行委員長)
秋川 雅史
W-inds
伍代 夏子
島谷 ひとみ
夏川 りみ
<ベトナム側>
Tan Minh(タン・ミン)
Trong Tan(チュオン・タン)
My Linh(ミー・リン)
My Tam(ミー・タム)
Thanh Lam(タイン・ラム)




小曽根 真(おぞね まこと、1961年生まれの52歳)は、日本のジャズピアニスト。
神戸市出身。ピアニスト兼ハモンドオルガン奏者であった父小曽根実の影響で5歳から
クラシックピアノを習うも、バイエルに挫折し、ハモンドオルガンに転向し天才奏者と
呼ばれる。12歳の時にオスカー・ピーターソンのソロ・ピアノを聴き、ジャズ・ピアノ
を始める決意をする。1976年15歳でプロデビュー。
1980年に渡米し、ボストンのバークリー音楽大学に入学。
1983年バークリー音楽大学のジャズ作・編曲科を首席で卒業後、ニューヨークのカー
ネギー・ホールにてソロ・ピアノ・リサイタルを開く。このとき、ちょうど見物にきて
いたクインシー・ジョーンズに見出されて米CBSと日本人初のレコード専属契約を結び、
アルバム『OZONE』にて全世界デビュー。
ジャズピアニストとしてデビューしたものの、現在でもハモンドオルガンを演奏する
ことがあり、父親との共演も多い。
近年はジャズの世界を越え、クラシック界で井上道義指揮。今井美樹のセルフカバー・
アルバムでのピアノ伴奏や、毎日放送『情熱大陸』、NHK『課外授業ようこそ先輩』等
のテレビ番組への出演、『THEドラえもん展』の音楽や舞台音楽など、ジャンルを超えた
取り組みも注目される。
『スウィングガールズ』(Swing Girls)は、日本映画作品。
2004年公開。監督は矢口史靖。東北の片田舎の落ちこぼれ女子高校生がビッグバンドを組んで、
ジャズを演奏する青春映画。ロケは山形県置賜地方を中心に行われた。
セリフも山形弁が使われたが、ネイティブな方言ではわかりにくいのでかなりオリジナルと
なっており、存在しない「米山弁」と矢口監督が発言している。キャッチフレーズは
「ジャズやるべ!」。
東北地方の山河高校の、落ちこぼれ学生だった友子ら13人の女子生徒は、夏休みの補習授業を
サボるために、食中毒で入院した吹奏楽部のピンチヒッターに応募する。
唯一、食中毒を免れた気の弱い吹奏楽部員・拓雄の指導で、ビッグバンドジャズをはじめた友子
らは、次第に演奏の楽しさに目覚め、ジャズにのめりこんでいく。しかし、吹奏楽部員が退院
して復帰したため、あえなくお払い箱になってしまう。
2学期になった友子らは、演奏の楽しさが忘れられず、バンドを結成し、楽器を買うために
アルバイトに精を出して、失敗したり四苦八苦しながら、ビッグバンドジャズにのめりこんでいく。










ボーイ・ジョージ(Boy George、1961年生まれの42歳 )は、イギリスのミュージシャン。
本名はジョージ・アラン・オダウド(George Alan O'Dowd)。カルチャー・クラブのヴォーカ
リストとして知られる。
1982年、カルチャー・クラブのヴォーカリストとしてデビューする。奇抜なメイクと独特の
ハイトーンボイスを駆使した楽曲でヒット曲を連発。1980年代の第2次ブリティッシュ・イン
ヴェイジョンを牽引した。代表曲に「君は完璧さ」などがある。
1986年にドラッグ所持で逮捕され、カルチャー・クラブは活動休止。ソロ活動を開始し、
1987年にアルバム「Sold」をリリース。1990年には「Jusus Loves You」名義で活動
(同名義ではアルバム「The Matir Mantra」一作のみリリース)。1992年にアカデミー賞
脚本賞を受賞した同名映画の主題歌となった「クライング・ゲーム」がヒット。
2009年、所内での勤勉な態度を理由に4か月での出所が認められ出所。
日本のあるTV番組でインタビューが放映されたとき日本語訳の字幕がオネエ言葉になっていた。










河野直人は父であり、世界的なツィター奏者河野保人にツィター、ヴァイオリン、
ピアノ、作曲の手ほどきを受け、幼少時代はドイツ、ハイデルベルクで過ごす。
1980年より西ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア、ベルギー、オランダ、
スペイン、ポルトガル、スイス、イギリス、デンマーク、東ドイツ、ハンガリーなどで
ツィター修業。各地でのコンサート、ライブ活動は、各国の新聞紙上に掲載され、
その才能、極めて美しい音色、繊細な感性、テクニック、音楽性、構成力を絶賛される。
1992年には中国上海音楽院に招かれ、当院のオーケストラと協演、「河野保人・直人で
奏でるツィター演奏会」を開催。中国歴史上初めてツィターが鳴り響き多くの人々に感銘
を与え日中文化交流を探める。東京渋谷「小劇場ジァンジァン」のコンサートは20回を
数え現在、ソロ活動の他、クラシック、ジャズ、ポップス、フォーク等様々なミュージ
シャンとのアルバム制作、コンサート、また人気テレビドラマのサウンドトラック、
コマーシャルの音楽制作にも参加。自らが企画制作したCD「モンマルトルのロマンス」
「カフェオレ」「ボンボヤージ」「ヴィンテージツィター」「ツィター1997」「ヴィン
テージツィター02」6枚リリース。ツィターの普及に努めている父の影響を受け継ぎ、
楽器ツィターの新たなる可能性を追求し新境地を開拓。天性とも言える多彩な音楽性を
発揮しレパートリーも幅広く、現代的でシャープな感性の演奏スタイルは、多くのファン
に将来を嘱望されている。


















ニルス・ラン・ドーキー(Niels Lan Doky、1963年生まれの49歳 )は、
デンマークのコペンハーゲン出身のジャズ・ピアニスト、レコードプロデューサーである。
コペンハーゲンでベトナム人の父親と、デンマーク人の母親の間に生まれた。
父親は医者として働いていたが、かつてはクラシック・ギターをしており、
ニールスも幼少時はギターを習っていた。12歳の時にピアノへと転向し、
1980年代の前半はバークリー音楽大学へと通っていた。
いままでに14枚のレコードを製作しており、中には彼の弟クリス・ミン・ドーキーとの
ベースとのユニット「ザ・ドーキーブラザーズ」名義で出したものやニールス=へニング
・エルステッド・ペデルセンやジョン・スコフィールドと共に出したものもある。
いわゆるヨーロピアン・ジャズ・ピアニストのパイオニアでもある。
槇原 敬之(まきはら のりゆき、1969年生まれの41歳)は、日本のシンガーソング
ライター、作詞家、作曲家、編曲家。独身。
1969年、大阪府高槻市で電器店を経営する夫妻のもとに生まれる。愛称「マッキー」。
親戚には、同じくミュージシャンのローリー(従兄、すかんちのローリー寺西)と日産の
元レーシングドライバーの寺西孝利がいる。
青山学院大学文学部中退。大の愛犬家。
オリジナル曲に関しては、ほぼ全曲の作詞、作曲、編曲を槇原本人がこなす。楽曲制作に
ついては、「詞先(しせん)」と呼ばれる、詞を先に作る方法を多用する。作詞の題材は、
主に日常の生活に起こる出来事や恋愛模様であり、現実感のある言葉を用いた表現が選ば
れることが多い。
反対に観念的表現が直接的に用いられることは少ない。
1999年覚せい剤所持が発覚。情報を得て内偵中だった警察署の捜索を受けた際、自宅から
発見され、覚せい剤取締法違反現行犯で逮捕される。その後に執行猶予付きの有罪判決を受けた。
2003年自身が作詞・作曲し、SMAPに提供した「世界に一つだけの花」がダブルミリオンを記録。







グリオまたはグリオー(griot)は、西アフリカ・セネガルの伝統伝達者。世襲制。
グリオは単に楽器の演奏をするだけではなく、歴史上の英雄譚、遠方の情報、各家の
系譜、生活教訓などをメロディーに乗せて人々に伝えることを本来の目的としている。
文字のなかった時代には彼らの役割は大きく、その知識量の豊富さから王の側近など
に取り立てられるグリオもいた。
セネガル出身で世界的なミュージシャン、ユッスー・ンドゥールはグリオの家系に生
まれ育った。
グリオの楽器にはコラ、ンゴニ、ボロン、太鼓のサバール、タバラ、木琴の一種であ
るバラフォンなどが知られる。それぞれの家系は扱う楽器が決まっており、コラの家
系はコラ、バラフォンの家系はバラフォンの演奏方法を肉親から引き継ぐ。
グリオに対して人々は畏敬の念を持っているため、彼らの楽器はとても神聖なものと
される。その昔、一般人は触れることすら許されなかったという。今でも、西アフリ
カの一般の人々がグリオの楽器に手を出すことは少ない。
YUI(ユイ、1987年生まれの25歳)は、日本の女性シンガーソングライター。
福岡県出身。物心が付く前から父はおらず、母子家庭で育った。
高校には進学したが、学費を稼ぐためのアルバイトで体調を崩して入院(肺がん)、
退院後に中退。その後、ストリートライブを行っていた。
2004年にソニーミュージックグループのSDオーディションに応募し、約2万人の
応募者の中から10人の中に残り、最終審査を受ける。この時も普段の路上ライブと
同様にあぐらをかいてギター弾き語りで自作曲を披露した。
その後、ソニーミュージックグループの各レーベルで争奪戦となり、デビューが決まる。
デビューへ向けた準備中の夏前に「feel my soul」の原曲を作る。
東京と福岡を往復する生活が続くが、後にドラマタイアップが決まり、秋に上京する。
12月に地元の九州地区限定でシングル「It's happy line」をインディーズレーベル
から1000枚のみ発売する。
2012年で活動休止し新しい音楽分野に進むと言う。名前も変える予定だ。
NHK紅白の出場も最有力候補でもある。

「女のみち」などのヒット曲で知られる「ぴんからトリオ」のメンバーで歌手の宮史郎さん
(本名・宮崎芳郎=みやざき・よしろう)が多臓器不全のため都内の病院で死去した。69歳。
兵庫県出身。関係者によると10月17日ごろから体調を崩し、風邪に似たような高熱とだる
さを訴え、今月3日から都内の病院に入院していた。
宮さんは63年に実兄の五郎さん、並木ひろしさんと、ぴんからトリオを結成し、72年に
発表した「女のみち」が420万枚の売り上げを記録する大ヒットとなり、翌年には紅白歌
合戦に初出場。同年には並木さんが脱退し、ぴんから兄弟となり、83年からはソロとして
活動していた。09年には芸能生活50周年記念曲「女のみち パート2」を発売。軽妙な
歌唱と口ひげを生やした親しみやすい風貌で人気を集めた。










ブロードウェイ・ゴスペル・ミュージカル、「ママ・アイ・ワント・トゥ・シング!」の
公演が人気だ。
ニューヨークはアート/ミュージック/カルチャーの宝庫でもある。特にハーレムはニューヨ
ークの中でも歴史/文化を保存継承していこうという意識が強く、個人、団体を問わずがんば
っている人たちがたくさんいる。「ママ・アイ・ワント・トゥ・シング!」の生みの親、
ヴァイ・ヒギンセンもそのひとりだ。実の姉、ドリス・トロイのサクセス・ストーリーを
ミュージカル化した「Mama, I Want To Sing!」は1983年の初公演以来、多くの人たちに
感動を与えてきた。
もともとゴスペル音楽はアフリカがルーツと言われている。「逆境にまけずポジティヴに生き
ていこう。」というヴァイのメッセージは言葉だけでなくきちんと行動がともなっていて説得
力がある。ヴァイの運営する非営利団体、「ゴスペル・フォー・ティーンズ」のメンバーの多
くは家庭崩壊や虐待など厳しい環境を乗り越え、歌だけを支えに生きてきた若者たちである。
「ママ、アイ・ワント・トゥ・シング」はドリス・トロイが主人公であるが、ゴスペル・
フォー・ティーンズたちが本当の主役なのかもしれない。音楽は人に勇気を与えてくれる。
吉岡 治(よしおか おさむ、1934年2月19日 - 2010年5月17日)は日本の作詞家である。
山口県出身。東京都で育った。文化学院卒業。
1953年に詩人のサトウハチローの門を叩き、弟子となる。作詞家としてのデビューは
『鳩笛ならそか』(1956年)。
1965年の松竹映画『悦楽』(大島渚監督)の主題歌『悦楽のブルース』(歌唱:島和彦)
の作詞を手掛けて以降、本格的に作詞家として活動し歌謡曲、童謡、アニメソングなど幅広い
ジャンルの作品を世に送り出した。
2010年5月17日、入院先の東京都内の病院で急性心筋梗塞のため逝去。76歳没。






















「マレウレウ」とはアイヌの伝統歌「ウポポ」の再生と伝承をテーマに活動する
女性ヴォーカルグループ。
2010年、初のミニアルバム「MAREWREW」を発表後、活動を本格化。2011年に自主
公演企画「マレウレウ祭り~目指せ100万人のウポポ大合唱!~」をスタートさせた。
また、SPECIAL OTHERSのコラボアルバム「SPECIAL OTHERS」に、アイヌの伝統歌
「イヨマンテ・ウポポ」で参加。ほかにもNHKの人気子供番組「にほんごであそぼ」
への出演、ワールドミュージックの世界的な祭典Womadへの出演をはじめとする
ヨーロッパ公演など、国内のみならず海外でもその活動が注目されている。
2012年8月には、待望のフルアルバム「もっといて、ひっそりね。」をリリース。
現代的なアレンジを織り込みつつも伝統的なウポポの魅力を凝縮した作品は、
各方面で高い評価を受けた。
マレウレウはアイヌ語で「蝶」のこと。















リー・マック・リトナー(Lee Mack Ritenour、1952年生まれの60歳)はジャズ・
フュージョン界で活躍するギタリストである。カリフォルニア州ハリウッド生まれ。
フュージョン全盛期を支えたギタリストを代表する一人である。
1970年代前半より活躍している。ブラジリアン・リズムに影響され、自身のアルバムに取り
入れられている物が多い。代表作に「Captain Fingers」が挙げられる。
6歳よりギターを始め、ウェス・モンゴメリーに大きく影響される。高校時代にセミプロと
して活躍し、南カリフォルニア大学入学後、GRPレコードの設立者の一人でキーボーディスト
である、デイヴ・グルーシンと出会い、1970年代よりスタジオミュージシャンとして活躍
し始める。その後は順調にミュージシャンとして今日の地位を
築いた。
フュージョン(Fusion, Jazz Fusion)とは1960年代後半から現在に至るまでのジャズを
基調にロックやファンク、R&B、電子音楽、ワールドミュージックなどを融合(フューズ)
させた音楽のジャンルである。一般的には、ジャズジャンルから確立されたものの一種に位置
づけされている。



















東京スカパラダイスオーケストラ(Tokyo Ska Paradise Orchestra)は、
日本のスカバンド。略称は「スカパラ」、「T.S.P.O.」。
楽曲の大半はインストゥルメンタルである。
1985年に結成。1989年にファイルレコードからアナログ盤
『東京スカパラダイスオーケストラ』をリリースした後、1990年にEPIC SONYから
シングル「MONSTER ROCK」、5月にアルバム『スカパラ登場』でメジャー・デビュー。
メンバー
・NARGO(ナーゴ)トランペット本名:名古屋君義、1968年生まれ
・北原雅彦トロンボーン 1961年生まれ
・GAMO(ガモー)テナーサックス、ソプラノサックス
本名:蒲生俊貴、バスクラリネット 1965年生まれ
・谷中敦 バリトンサックス 1966年生まれ
・沖祐市 キーボード 1966年生まれ
・川上つよし ベース 1967年生まれ
・加藤隆志 ギター 1971年生まれ
・大森はじめ パーカッション 1965年生まれ
・茂木欣一 ドラムス、ボーカル 1967年生まれ
山本 潤子(1949年生まれの65歳)は、日本のシンガーソングライターである。旧姓、新居。
奈良県出身。2人の娘の母親でもある。
代表曲に「翼をください」、「卒業写真」などがある。「翼をください」は約30年以上にわたり
小学校の音楽の教科書に採用され、現在でも合唱曲として有名。
4人姉妹の末っ子として生まれ、生後半年で父親の実家がある大阪市に転居。帝塚山大学卒業。
大阪市の阿倍野の歩道橋上で、当時すでにロック・キャンディーズで活動していた谷村新司に
声をかけられ、「ヒルビリー・シンガーズ」のボーカルとなった。
高校2年生のとき、ピーター・ポール&マリーのコピーバンドを結成し、親衛隊に所属。
1969年、後藤悦治郎、平山泰代、(後の紙ふうせん)山本俊彦、大川茂とともにフォークソング
グループ「赤い鳥」を結成。同年、第3回「ヤマハ・ライト・ミュージックコンテスト」全国大会
にて「竹田の子守唄」を歌いグランプリを獲得。第2位のオフコースなどを抑えての優勝。
1971年、シングルレコード「竹田の子守唄/翼をください」が大ヒットとなる。
1973年 4月、メンバーである山本俊彦と結婚。
1974年 9月、「赤い鳥」解散。
10月、山本俊彦、大川茂とともに新グループ「ハイ・ファイ・セット」結成。




Windows-8を導入しました。
ハードはDELL XPS-8500。Core 64bit、 i7-3770、メモリ8G、CPU3.40の機種です。
スタートのタイルを除いて基本的にはほとんどWin-7と変わらないようですが、細かい
点は性能が良くなっていますね。
モニターは27型LEDにしました。省エネで明るく、また大きくて見やすいです。
ボクの場合はディスクワークがほとんどで端末(ipadなど)は必要ではないので当面は
見合わせています。
さてこれからがしばらく慣れるまで大変かと思います。
他の情報としては次期OS(ブルーサーバー2016(仮称))の開発に着手。
来春office2013が発売になると言うことです。



元クレージーキャッツのメンバーで、俳優としても活躍した桜井センリ
(本名・桜井千里)さんが、東京都新宿区の自宅で死去していたことが12日、
分かった。86歳。
一世を風靡したコミックバンド、クレージーキャッツの存命者は犬塚弘さんだけになった。
大正15年、父親の駐在先のロンドン生まれ。早稲田大在学中にバンド活動を始め、
昭和35年、病気で倒れた石橋エータローさんに代わり、ピアニストとしてクレージー
キャッツに加入。小柄な体で女性役をこなし、ハナ肇さん、植木等さんらとともに全盛期の
クレージーキャッツを支えた。
俳優としてもクレージー出演作品のほか、映画「男はつらいよ」シリーズなど山田洋次監督
作品の脇役として存在感を発揮。テレビドラマにも「前略おふくろ様」など多く出演した。
殺虫剤「キンチョール」のCMでは、おばあさんの扮装でお茶の間に親しまれた。












水谷川 優子(みやがわ ゆうこ)は、日本のチェリスト。
東京都生まれ。指揮者で日本の交響楽団の祖であった祖父・近衛秀麿の遺志により
6歳からチェロを始める。19歳でアレクサンダー・シュナイダーによりニューヨーク・
ストリング・セミナーに招聘され、カーネギー・ホール、ワシントンセンターなどで演奏。
過去にザルツブルク室内楽弦楽団、ザルツブルク・ゾリスデン首席奏者を務めた。
独奏及び室内楽でヨーロッパ各地の音楽祭へ出演する傍ら、日本国内でも2003年より
本格的に公演活動を開始。カザルスホール、王子ホール、サントリーホール、紀尾井
ホールなどでのリサイタルや欧州からの共演者と室内楽公演を行なっている。少年院、
障害者福祉施設、ホスピスなどでの演奏会における福祉活動が評価され、2002年より
財団法人倶進会からの助成を受けている。現在は日本とドイツに拠点を持つ。
2005年2月にファーストCD『歌の調べのように』、そして2006年8月には
『ソルヴェイグの祈り』をリリース。













パレオ(Pareo、Pāreu)とは身体に巻き付ける綿の布の事であり、元々は「パレウ」という
タヒチの民族衣装である。タヒチの言葉で、「巻きつけるスカート」を意味する。
インドのサリーに似ている。
約90cm×180cmほどの色とりどりに着色された綿の布を体に巻きつけ、端を縛り着用する。
着用方法、結ぶ部分も様々でドレスやズボン、水着として使用できる。
男性が腰に巻くものは主にmaro(HUNDOSHI)と呼ばれており、Pareoは女性の使用する
スカートを指す。だが、男女関係なく体をくるむ布をパレオと読んでも差し支えないようである。
1950年代のアメリカでビーチファッションとして流行後、世界中に広まった。
一般的にはドレス等の着衣としてより、水着の上に巻きつけるものとしてのイメージが強い。
日本では1990年後半に流行し、現在では水着とパレオの組み合わせは定番となっている。
巻き方
1 まず、パレオを横長に体にあて、胸元の中央であわせる。
2 パレオの両端を胸元の中央でキュッと1回結ぶ。
3 結び目をキレイに整えたら、完成!
簡単でしょ!












芳野藤丸(よしの ふじまる、1952年生まれの60歳 )は北海道出身のミュージシャン。
元妻は石田えり。
函館ラ・サール学園を卒業後、アメリカ西海岸を10ヶ月間放浪、帰国後大学に入学する。
1970年 大学仲間とバンド「WISH」を結成(ギターは大学入学後から始める)。
1972年「つのだヒロ・スペースBAND」にギタリストとして参加
1973年「藤丸BAND」を結成。西城秀樹のサポートバンドとして活躍
1978年「One Line Band」を結成。
1979年バンド名を「SHOGUN」に変更
1982年ソロデビュー。その後「AB'S」を結成。
1997年「SHOGUN」再結成
2002年「AB'S」再結成
2002年「桑名正博 & THE TRIPLE X」に加入
スタジオ・ミュージシャンとしてのキャリアも長く、『新世紀エヴァンゲリオン』等の楽曲
演奏にも参加している。
雪村 いづみ(1937年生まれの75歳 )は日本の歌手・女優・画家で、本名:朝比奈 知子。
元・歌手で作家の朝比奈愛子は実妹、タレントの朝比奈マリアは実娘。
東京都出身。 実業家の父朝比奈愛三は事業の傍らハワイアンバンドカルア・カマアイナスに
参加するなど熱心な音楽家でもあり、幼少期のいづみは戦時下に置いてもモダンな音楽に日常
的に接して育った。 いづみ9歳の時、当時通信社に勤務していた父愛三が自殺。
1952年には母恵子が経営していた東興映画が倒産し生活が困窮。中学卒業後まもなくして歌手を志し、
新橋のダンスホール「フロリダ」で無給ながら歌手活動を開始した。
1960年全米縦断公演『ホリデイ・イン・ジャパン』出演のため渡米。ニューヨークラテンク
オーター劇場を皮切りに全米12都市を一年にわたり公演。開演直後から大評判となり、
翌61年4月には「LIFE」誌にも紹介された。
1961年(昭和36年)、アメリカ公演時に知り合ったテンプル大学の学生ジャック・セラーを
日本へ連れ帰り電撃結婚。一子(朝比奈マリア)をもうけるも、1966年(昭和41年)に離婚
し同年渡米。
翌1967年(昭和42年)にアメリカでバリトンサックス奏者の原田忠幸と再婚(後に離婚)。
現在は独身。
1998年に紫綬褒章、2007年には旭日小綬章を受章。























ハワイはマウイ島にある小さな街「マカワオ」。
メインストリートでもあるボールドウィン通りをハレアカラ方面へ行くとカウボーイの街
『マカワオ』がある。
マカワオもパイアと同様サトウキビプランテーションで働く人たちのために出来た町。
またマカワオの町周辺には牧場が点在し、カウボーイたちが多く働いていることもあり、
いつしかこの町はパニオロタウン(ハワイ語でカウボーイの意味)と呼ばれるようになった
と言う。カウボーイの発祥はアメリカ本土よりも古いのだ。
全長100メートルぐらいの小さな商店街。
「カウボーイの街」と言われるだけに、パニオロショップが建ち並ぶ。店内には所狭しと
カウボーイハットや、ウエスタンブーツ、ウエスタンシャツやブーツ、ベルトなどがディス
プレイされている。
年1回カウボーイ祭りがあり大勢の観光客で賑わう。











吉永 小百合(1945年生まれの67歳)は、日本の女優である。本名、岡田 小百合。
東京都出身。そのファンは、「サユリスト」と呼称される。
吉田正(作曲家)の門下生として、数多くのレコードを世に送り出している。
早稲田大学第二文学部西洋史学専修卒業、学位は文学士。
小学校5年の時にラジオドラマ「赤胴鈴之助」の子役で芸能界デビュー、59年松竹の
『朝を呼ぶ口笛』で映画初出演。
60年日活へ入社、赤木圭一郎主演「拳銃無頼帖・電光石火の男」でその美貌が
一躍注目される。その後、日活純愛路線で浜田光夫とコンビを組み、数多くの
日活青春映画に出演し当時の若者達に絶大の支持を得て日活青春映画の黄金時代を築いた。
中でも、代表作となる「キューポラのある街」ではブルーリボン主演女優賞を受賞し、
日活のトップスターとなる。
62年には『寒い朝』でビクターレコードから歌手デビューし、橋幸夫とデュエットした
『いつでも夢を』で日本レコード大賞を受賞する。
63年以降は「青い山脈」「光る海」等の青春映画、大ヒット作となった「愛と死をみつめて」
や「伊豆の踊子」「潮騒」「うず潮」等の文芸路線の代表作が数多くある。
熱烈な西武ライオンズファンとしても有名。
世界31ヶ国訪れている。
2006年 紫綬褒章、受章 。 2010年 文化功労者。
草野 昌一(1931年 - 2005年)は、シンコーミュージック・エンタテイメント元会長。
東京都出身。訳詞家としては漣 健児(さざなみ けんじ)のペンネームを用いた。
早稲田大学在学中の1951年、父・草野貞二が経営する新興音楽出版社から雑誌『ミュー
ジック・ライフ』を復刊し(貞二が1938年に創刊した『歌の花籠』をベースとし、1946年に
創刊された『ミュージック・ライフ』の復活)初代編集長を務めた。
日本の音楽出版ビジネスの先駆者であり、1960年に音楽出版業務を開始。1965年には、
音楽出版社として日本で初めて原盤制作を行う(マイク真木「バラが咲いた」)。
1965年には音楽出版社から初めてJASRAC理事に就任。1973年には音楽出版社の統一団体・
音楽出版社協会(MPA)設立(それまで新興など出版社系が所属する日本音楽出版社協会
(NOSK)と、日音、PMPに尽力。1980年にはMPA会長に就任。1978年、カントリー・ミュー
ジック協会国際委員としてホワイトハウスに招待される。日本の音楽関係者では草野が唯一
である。1998年に日本レコード大賞功労賞、1999年に藍綬褒章、日本音楽著作権協会60周年
特別賞、2003年に音楽出版社協会30周年功労賞を受ける。
1959年には「新田宣夫」名義で「赤鼻のトナカイ」などの訳詞を手がけていたが、漣健児
名義で初めて訳詞を手がけたのは、坂本九「ステキなタイミング」(1960年)。その他代表作
としては、飯田久彦「ルイジアナ・ママ」、ナット・キング・コール「L-O-V-E」、中尾ミエ
「可愛いベイビー」など、総数は400を越える。ただし、ザ・カーナビーツの「オブラディ・
オブラダ」に代表されるように、訳詞というよりは超訳と表現されるものも多い。























THE BAWDIES(ザ・ボゥディーズ)は、日本のロックバンド。
ビートルズ2世とも言われている。
ROY(ロイ)・・・渡辺亮 1983年生まれ。ボーカル ベース
TAXMAN(タックスマン)・・・舟山卓 1983年生まれ。ギター ボーカル
JIM(ジム)・・・木村順彦 1983年生まれ。ギター コーラス
MARCY(マーシー)・・・山口雅彦 1983年生まれ。ドラムス、コーラス
2004年に小学校からの同級生であったROY、JIM、MARCYの3人と、高等学校からの
同級生であるTAXMANで結成。 2007年にインディーズ時代に、初海外ツアーとなる
オーストラリアツアーを敢行し、現地のオージーから歓声を浴びる。
The Sonicsとリトル・リチャードなどのブラックミュージックから音楽的影響を
受けている。ポール・ウェラーからセッションやオープニングアクトのオファーを
受けるなど、高い評価を得ている。