
















鈴木 雅明(1954年生れの59歳)は、バッハ・コレギウム・ジャパンの音楽監督、
チェンバロ・オルガン奏者。日本人として初めてドイツの「バッハメダル」を受賞。
バッハ研究家の第一人者。
兵庫県神戸市出身。クリスチャンでアマチュア音楽家の両親の元に生まれる。
東京芸術大学音楽学部作曲科を卒業。同大学院オルガン科に進学し廣野嗣雄に師事、
鍋島元子が主宰する古楽研究会でチェンバロを学ぶ。
アムステルダムのスウェーリンク音楽院でチェンバロをトン・コープマン、オルガンを
ピート・ケーに師事。
神戸松蔭女子学院大学助教授、東京芸術大学音楽学部古楽科助教授を経て同大学
教授、2010年3月退職。神戸松蔭女子学院大学客員教授。米イェール大学教会音楽
研究所客員教授。
バロック・チェロ奏者の鈴木秀美は実弟。声楽家の鈴木美登里(秀美夫人)は義理の妹。
プロテスタントのクリスチャンであり、日本キリスト改革派教会に属する教会の教会員。
『ウエスト・サイド物語』(West Side Story)は、アーサー・ローレンツ脚本、
レナード・バーンスタイン音楽、スティーヴン・ソンドハイム歌詞のブロードウェイ
ミュージカル。
原案ジェローム・ロビンズ。1957年初演。『ウエストサイドストーリー』と呼ぶところもある。
シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』に着想し、当時のニューヨークの社会的背景
を織り込みつつ、イタリア系アメリカ人とプエルトリコ系アメリカ人との2つの異なる少年
ギャング団の抗争の犠牲となる若い男女の2日間の恋と死を描く。











杏里(あんり、1961年生まれの52歳)は、神奈川県大和市出身の歌手、シンガーソング
ライター。本名は川嶋 栄子(かわしま えいこ)。現在アメリカ在住。
1978年、高校2年生の時に後にスタンダードナンバーにもなった『オリビアを聴きながら』で
デビュー。幼少時からピアノを習っていて弾き語りが好きで、歌手デビュー前はファッション
モデルをしていた。
デビュー曲が小ヒット後はシングル、アルバムを定期的に発表してきたが、4年ほどヒット
曲に恵まれず1982年に当時のバックバンドのメンバーでもあった小林武史が作曲して花王
のCMで使われたシングル盤『思いきりアメリカン』と同タイトルのベストアルバムがヒットした。
7月には初のエッセイ写真集『思いきりアメリカン』を発売した。
1988年6月、デザイナー・山本寛斎の甥で当時アパレル会社社長の岸田健と結婚。
しかし、1993年9月に離婚した。2005年にはジャズギタリスト、リー・リトナー(Lee Ritenour)
と婚約を発表したが、2008年4月28日、自身のホームページにて婚約を破棄したことを発表した。
ファーストアルバムのレコーディングで訪れたロサンゼルスをデビュー当時からとても気に
入っていて、いつかはロスで生活したいと当時から考えていたそうで2012年に移住してからは、
ロスを拠点に国内外で音楽活動をしている。
2008年7月、藤沢市より初代「ふじさわ観光親善大使」に選ばれる。
ライザ・ミネリ(Liza May Minnelli、1946年生れの67歳)は、アメリカの女優で歌手。
ロサンゼルスで、イタリア系アメリカ人映画監督のヴィンセント・ミネリと女優のジュディ・
ガーランドの間に生まれる。1949年に、わずか2歳で映画『Good Old Summertime』で
デビューし、その後もいくつかの映画に出演する。
1963年にブロードウェイにデビューをし、その後1965年にブロードウェイミュージカルの
『Flora the Red Menace』でトニー賞の主演女優賞を受賞する。その後、1967年に
映画女優として本格的にデビューし、1972年に公開されたアメリカ映画『キャバレー』で
主演を務め、1973年のアカデミー賞主演女優賞とゴールデングローブ賞主演女優賞を
ダブル受賞するなど、その歌唱力と演技力が高い評価を受ける。
その後アルコール依存症や薬物中毒になり、一時は引退の危機さえ囁かれたが、
カムバックし再び第一線で活躍する。しかし、2001年にウィルス性の脳炎に罹り、療養中に
体重が増え、声がでなくなるなど再び歌手活動の危機を迎えるものの、再び奇跡的な復活
を遂げ、現在もアメリカを代表する歌手、女優として舞台を中心に活躍している。






チェウニ(1964年生まれの48歳)は、韓国・ソウル出身の歌手。本名・韓国での芸名は、
チョン・ジェウン。母は、韓国の国民的歌手であるイ・ミジャ。
8歳にして韓国でデビューを果たす。ソウル芸術大学を卒業した。デビュー以来韓国で
歌手として活動。70年代末に日本マーキュリーレコードからアルバム『椿むすめ』を発表。
韓国では、1980年代前半に「港」、「連絡船」、「どうしても行っちゃった人」などのヒットを
記録する。
その後1998年に単身来日し、『トーキョー・トワイライト』で日本再デビュー、第42回日本
レコード大賞新人賞に輝く。デビュー曲から3曲連続東京のご当地ソングであり、
東京三部作と呼ばれている。また母国でも活躍が認められ、2007年10月6日第14回
大韓民国芸術大賞で、東方神起とBoAとともに海外人気スター賞を受賞した。
2012には念願だった日本における永住権も取得し、活躍の場をさらに広げながら歌に
取り組んでいる。

















星野 源(1981年生まれの32歳)は、日本の俳優、音楽家、文筆家。
埼玉県蕨市出身。インストゥルメンタルバンドSAKEROCKのリーダーとして、主にギターと
マリンバを担当。俳優業、文筆家としても多数の仕事を抱えている。
中学1年生から演劇活動と音楽活動を同時並行でスタート。『ニンゲン御破算』参加をきっ
かけにデビュー。また、2000年に結成したバンド“SAKEROCK”を筆頭に、シンガーソング
ライターとしての音楽活動も活発。“星野源”として2011年に発表した2ndアルバム
『エピソード』は、オリコン・ウィークリーチャートで5位を獲得、第4回CDショップ大賞準大賞
を受賞した。なお、敬愛する細野晴臣とは2005年に埼玉県狭山市で行われた
「HYDE PARK MUSIC FESTIVAL」での共演をきっかけに雑誌に共同連載をするなど交流
を深めている。
サラ・ブライトマン(Sarah Brightman, 1960年8月生まれの52歳)は、
イギリスのソプラノ歌手、女優である。
1980年代にミュージカル女優として輝かしい成功を収め、1990年代以降は
ソロ歌手として活動している。
クラシックとポップスを融合した独自の音楽スタイルはクラシカル・クロス
オーバーの世界的な隆盛をもたらしている。
アメリカにおけるビルボード・チャートのクラシック音楽部門とダンス音楽部門で
同時に1位を獲得した唯一の歌手である。








ホリー・コール(Holly Cole、1963年生まれの49歳)は、カナダの女性ジャズシンガー。
ノバスコシア州ハリファックス生まれ。家族は全員がピアノを演奏する音楽一家。
兄は高校を卒業するとバークリー音楽院にジャズミュージックの勉強のため入学。
16歳の時に兄を頼ってボストンに行き、初めて生のジャズミュージックと出会う。
1987年、デビュー間近の時に自動車事故で顎の骨を砕き一時音楽家への道を閉ざされるが、
1989年の11月に『Christmas Blues』を発表。
1992年「コーリング・ユー」が世界的大ヒット。
様々なジャンルの歌をジャズと融合させたパイオニア的存在。
日本の歌では森山直太朗の「さくら」をカバー。
中島 美嘉(1983年生れの29歳)は、日本の歌手、女優。鹿児島県出身。
2002年関西テレビのテレビドラマ『天体観測』の主題歌として歌った「WILL」がヒット。
これが1stアルバム『TRUE』の大ヒットに繋がり、オリコン初登場1位・ミリオンセラーを記録した。
また、女優として、同時期に放送されていた読売テレビのテレビドラマ『私立探偵 濱マイク』に
準主演としてレギュラー出演したことも話題になった。
第44回日本レコード大賞最優秀新人賞など、数々の音楽新人賞を受賞し、NHK紅白歌合戦にも
初出場を果たした。
















「マリア・ハペス」。スペインセビリア出身。現代フラメンコの女王として世界各国で公演を行う。
ドラマチックでスタイリッシュなパフォーマンスがトレードマークでもある。
さらにストーリー性の強さ、照明と影の効果的な使用、フラメンコ以外の音楽を積極的に
取り入れるなど、世界的なフラメンコダンサーの中でも独自のスタイルを築き上げている。
幼いときからフラメンコとスペイン舞踊を学び、アントニオ・ガデス舞踊団などで活躍して
きた彼女は、1994年「リバーダンス」出演で世界的な注目をあびたが、実はそれより以前
に自らの舞踊団を結成、生まれ故郷セルビアで公演を行っていたのである。
その後、アンダルシア州立舞踊団監督に就任。アルゼンチンタンゴからロック、ポピュラーソング
など、フラメンコ以外の曲をフラメンコのテクニックで踊ってしまうという、スペイン舞踊史に残る
傑作「アンダルシアの犬-ブルレリアス」を上演。
カスタネットやマントンとよばれる美しい刺繍の施された大判のショールをつかいマリアが踊る、
シギリージャ、アレグリアスといったフラメンコの曲の中には伝統をふまえつつ、マリアらしい
今風でシックな要素が加えられている。
芹 洋子 (本名:伊東洋子、旧姓:善利、1951年生まれの61歳) は日本の女性歌手である。
大阪府出身。清潔なホームソングの歌い手として人気が高い。
小学4年の頃からTVに出演。1969年ビクターより『野に咲くバラのように』でメジャーデビュー。
1970年からNHKテレビ『歌はともだち』に登場、1972年、キングレコードに移籍し、
『牧歌~その夏~』で再デビューした。1974年には、北海道の広尾線(現在は廃線)の愛国駅から
幸福駅の区間にちなんだ『愛の国から幸福へ』がヒット。以降『四季の歌』(ミリオンセラーを記録)、
『赤い花白い花』、『坊がつる讃歌』と順調にヒットを飛ばし、1978年の「第29回NHK紅白歌合戦」
(歌は「坊がつる賛歌」)にも出場した。
1981年には 日中文化交流音楽大使として北京公演を行い(日本人の歌手では初)、以降中国
公演は12回に及ぶ。またこの年所属プロダクション社長と結婚した。
その翌年、長女を出産。その長女も現在は所属プロダクションに就職。芹洋子を担当中。
1992年、交通事故により外傷性クモ膜下出血となり、意識は回復したものの逆行性健忘を生じ
自身が歌手であったことや持ち歌すべての記憶を失う。しかし懸命のリハビリによって歌手として復帰。






バーニス・パウアヒ・ビショップ(Bernice Pauahi Bishop)。
彼女は聡明な美人で、ロト・カメハメハ(カメハメハ5世)からも求婚されていた。
しかし、ハワイの王族同士の結婚に抵抗のあった彼女はそれを断わり、アメリカ人の若者
チャールズ・リード・ビショップと結婚。1850年、バーニス18歳、ビショップ28歳のとき。
結婚後、彼女は父パキ、母コニア、ほかの従妹たちから続々と遺産を相続していくことになり、
ハワイ全土の10%近くを個人所有することになる。1872年、病床のカメハメハ5世は
バーニスを、今度は結婚相手ではなく、王位後継者として要請もバーニスはこれも固辞、
夫ビショップと共に静かな生活を送ることを選んだ。
しかしバーニス自身も1884年に亡くなってしまい、夫のビショップが莫大な財産
を相続することに。しかし、ビショップは全く驕らず、妻バーニスの名を冠した「バーニス・
パウアヒ・ビショップ」財団を設立、有名なビショップ博物館をはじめ、カメハメハ・スクールなど
教育や教会に莫大な援助を続ける一方、みずから保有することとなった銀行や不動産を
通じて、カメハメハ3世からリリウオカラニにわたるハワイ王家6代をサポートし続けた。
OKAMOTO'S(オカモトズ)は、日本のロックバンド。2010年メジャーデビュー。
中学校からの同級生であった4名によって結成。全員が岡本太郎好きで、
ラモーンズのように全員がオカモト姓を名乗る。
2010年3月、テキサス州オースティンで開催された「SXSW(サウス・バイ・
サウスウエスト)2010」に出演。その後、全米6都市をまわるUSツアーを敢行。
2011年5月28日、ハノイで開催された野外音楽フェスティバル<CAMA FESTIVAL5>
のメインステージに出演。現地のメディアにも報道された。
(海外でのライヴは米国、豪州、香港に続き既に4ヶ国目)。
2011年12月3日、ハノイ2度目のライブ「GO!GO!JAPAN!」出演。
・オカモトショウ
ボーカル担当。1990年生まれ、ニューヨーク出身。
ジャズサックス奏者・スコット・ハミルトンの長男。
・オカモトコウキ
ギター担当。1990年生まれ、東京都出身。
・ハマ・オカモト
ベース担当。1991年生まれ眼鏡、口髭が特徴。浜田雅功・小川菜摘の長男。
・オカモトレイジ
ドラムス担当。1991年生まれ。東京都出身。無邪気で隠し事がない。
『THE PRIVATES』の延原達治の長男。幼少時は子役として活躍していた。







ワイキキの北側にある人工の運河が「アラワイ運河」がある。
ワイキキのホテル・コンドミニアム群とカパフル、マッカリーの地区を区切る形で流れている。
運河の向こう側にはアラ・ワイ・ゴルフコースなどの緑が広がっている。
ワイキキはハワイ語で「湧き出る水」という意味がある。その名の通り、昔は沼地の多い湿地帯
であった。このワイキキを埋め立てるために作られたのが、アラワイ運河である。
アラワイ運河の完成によって豊富な湧き水は、ここに流れ込むようになり、周辺の環境は大きく
変わった。ワイキキが美しい砂浜を持つビーチリゾートに変貌をとげたのも、この運河のおかげ
と言われている。アラワイはハワイ語で「水路」という意味なのだ。




















好きなハワイがここにある! トロピカルなタッチでハワイを描く、サーフアーチスト
「シャノン・オコンネル」。1981年コロラド州に生まれる。
サーファーとしても活躍するオコンネルは、弱冠18歳で単身ハワイへ移住。
2012年3月、サーフィンの聖地パイプラインで開催された女子プロサーフィン大会の
公式ポスターに起用され、ハワイのローカルサーファーアーティストとして注目を集めている。
プルメリアの花の香り、美しい海のカラーレーションなど、ハワイが誇る雄大な自然に
インスパイアされた彼女の作品は、色彩豊かに描かれるトロピカルフラワーやハワイの神様
として崇拝されるティキ像が隠し絵として描かれた作品、そして躍動感溢れるウェーブが
迫力のある構図で描かれているのが特徴だ。
現在オアフ島のエバビーチを拠点に活動している。











細川 たかし(本名:細川 貴志、1950年生まれの63歳)は、演歌歌手。
北海道虻田郡真狩村(まっかりむら)出身。三橋美智也に師事。
歌手になるため、「1年で売れなかったら戻る」と約束して妻子を残し、北海道から上京した。
1975年『心のこり』で歌手デビューする。第6回日本歌謡大賞で放送音楽新人賞を受賞する。
伸びやかな高音と民謡で鍛えられた肺活量にて聞く者を圧倒させる。
1985年には真狩村に「細川たかしを讃える碑」、1994年には「細川たかし記念像」
(別名「歌う銅像」)が建てられる。『紅白歌合戦』(NHK)にはデビュー以来32回連続、
通算で34回出場。民謡三橋流の名取であり、三橋美智貴(みはし みちたか)と名乗った。


















高橋優(1983年生まれの30歳 )は、秋田県横出身の日本のシンガーソングライター。
父は民謡歌手。札幌学院大学入学後、狸小路でストリートライブを開始。大学卒業後、
映画館で、マネージャーのアルバイトを2年間経験。そのまま就職しないかと打診された
こともあったが、2008年に上京。2010年7月21日にワーナーミュージック・ジャパンより
『素晴らしき日常』でメジャーデビュー。通称・リアルタイムシンガーソングライター。
キャッチフレーズは、“今日思ったことを今日歌う。目の前の社会、友情、恋愛、性、孤独。
歌という名の瓦版にのせて。言葉、旋律、声。誰にも似ていない。”
2011年2月26日、アメリカのニューヨーク中心部でストリートライブを行い、Ustreamで
全世界に配信。これに先立ち、同月17日付ニューヨーク・タイムズ紙に
「I think the universal language of the world is not English but a smile」
と「福笑い」の歌詞の一節を英訳した意見広告を掲載する。同紙に意見広告を掲載したのは
日本人ではオノ・ヨーコ以来2人目である。
大橋トリオ(1978年生まれの35歳 )は、日本の歌手・音楽家。
本名は大橋好規(おおはし よしのり)。千葉県出身。
洗足学園音楽大学音楽学部ジャズコースピアノ科卒。
2003年、本名の大橋好規名義で音楽家として活動を開始。
作曲家や音楽プロデューサー、ナレーター等活動の幅を広げる。
2007年より大橋トリオ名義で歌手としても活動を開始し、2009年にメジャーデビュー。
大橋トリオとは、名前通りトリオ編成という訳ではなく、大橋自身のソロユニット名であり、
歌手としてアーティスト活動を行う際に用いる。
作曲や編曲の他、ほぼ全ての演奏は大橋自身が行うが、作詞だけは作詞家に依頼している。
作詞は、日本語詞はmicca、英語詞はJoshua Katrisという人物が、それぞれ担当している。
イメージが固まっている場合は作詞家にその旨を伝えるが、よほどのことがない限りは完全に
分担作業の制作工程を取っている。
音楽性は幅広く、ジャズ、ポップス、ソウル、フォーク、ロック、AOR等、様々なジャンルの音楽を
採り入れ、融合を図っている。アルバム『THIS IS MUSIC』では、エレクトロニカやヒップホップ
の要素も採り入れている。
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