ミヤコ蝶々(1920年- 2000年)は、日本の女優、漫才師。本名、日向 鈴子(ひゅうが すずこ)。
長らく上方漫才・喜劇界をリードした関西を代表するコメディアンである。
1920年東京都生まれ。鈴子が0歳、兄が4歳のときに両親が離婚し、1924年に父親と兵庫県
神戸市へ移住した。
1927年家具屋をたたみ、父親の思いつきで芝居一座を結成し、娘を座長にさせた。
九州の炭坑町の小さな劇場で安来節を唄い、初舞台を踏む。
その後もあらゆる芸(漫才、喜劇、女剣舞、バレエ、三味線など)を身に付ける。
2000年3月にテレビ出演したのが公式の場に出た最後となり、10月12日に慢性腎不全で、
大阪市の病院で死去。享年80。
没後、地価約4億円といわれる大阪府箕面市の自宅を記念館として整備したいという義弟の
ひとりと売却を主張する他の親族とで約8年にわたって争いが続いていたが、土地の一部分割・
売却で決着。改装を経て、2008年にミヤコ蝶々記念館がオープンした。
『智恵子抄』は、詩人の高村光太郎が1941年に龍星閣から出版した詩集である。
1914年に処女詩集『道程』が出版されて以降、『現代日本詩集』などの詩華集に
未刊詩が多数収録されることはあったものの、高村単独による詩集の計画は長らく
実現しなかった。1940年に出版された改訂版『道程』を除くと、『智恵子抄』は2冊目の
詩集にあたる。
智恵子とは妻の高村智恵子のことであり、彼女と結婚する以前(1911年)から彼女の
死後(1941年)の30年間にわたって書かれた、彼女に関する詩29篇、短歌6首、
3篇の散文が収録されている。戦後、さまざまな出版社から同名の詩集が出ており、
それらには最初の版の刊行後に書かれた作品や、その版に未収録のものも
収められている。
佐野 元春 (1956年生まれの59歳)は、日本の歌手、ロックミュージシャン、
シンガーソングライター、ギタリスト、作詞家、作曲家、音楽プロデューサー、
ラジオDJ・詩人。
1980年、シングル「アンジェリーナ」で歌手デビュー。詩人としてのメッセージを
内包した歌詞、多様なリズムとアレンジ、ラップやスポークン・ワードなどの新しい
手法を実践し、さまざまなジャンルの音楽を折衷させた曲を数多く発表して作品の
商業的ヒットに関係なく高い評価を得ている。現在は独立系レーベル「Daisy Music」
を主催し、インターネットを通じた音楽活動などでも先駆的な試みを続けている。















ハワイはマウイ島のハナの町。
ハナの町を通り過ぎ、密林や滝の間を更に南西に13キロほど行ったキパフルと云う地区に
チャールズ・A・リンドバーグの墓があります。鳥の声しか聞こえない林の中の細い道を海に
向かって入っていくと、1857年から続く小さなパラパラ ホオマウ教会 (Palapala Hoʻomau
Church) が在り、その墓地にリンドバーグは眠っています。1927年に、スピリット オブ
セントルイス号で、ニューヨークからパリまで大西洋横断単独無着陸飛行を成し遂げた
米国人です。夫妻で日本も訪れたことのあるリンドバーグは、晩年をマウイ島のハナで
過ごしていたのでした。
現在は孫のエリン・リンドバーグがハワイでスポーツインストラクターとして活躍
している。
内田 勘太郎(本名・内田昌宏、1954年生まれの61歳)は、日本のブルースギタリスト。
チャキ製のいわゆるピック・ギターを愛用していた。一時原田芳雄の元に預けられるが、
原田の没後彼の手元に戻っている。この他にもシェクターから発売されていた内田勘太郎
モデルやK.YAIRI、Morrisのギターなどを使用していた。
彼が得意とするスライドギターで使用するスライドバーはカルピスの瓶を割って断面をヤスリで
削り、首の部分を使用していることで有名である。カルピスの瓶が新しくなったと聞いた際には、
瓶を製造していたメーカーに電話を掛けて、余った瓶を大量に買い取ったり、廃品回収で
出された瓶から同じ形の瓶を探していたという。
ジェームス・テイラー(James Taylor、1948年生まれの67歳)は、アメリカの
シンガーソングライター。マサチューセッツ州ボストン市で生まれ、ノースカロライナ州の
チャペルヒルで育った。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第74位。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第84位。
1968年にアップル・レコードからデビューするが、自身の交通事故や当時のアップル
社内の混乱もあって、契約を打ち切られる。翌1969年秋にワーナー・ブラザーズと
契約するとともに帰国。翌1970年、移籍第1弾のアルバム『Sweet Baby James』が
ヒットした。
スタイリスティックス(The Stylistics)はアメリカのブラックミュージックのグループ。
フィラデルフィア・ソウルの主要アーティストの一つ。黒人コーラス・グループの中でも、
甘く洗練されたスウィート・ソウルというスタイルが持ち味。リードのラッセル・トンプキンスJr.
のファルセットを売り物として、人気グループとなった。
1968年結成。1971年にフィラデルフィアでデルフォニックスのプロデュースで成功を収めて
いたトム・ベルの力添えによりアルバム「スタイリスティックス登場」でデビュー。
この中から「ビッグ・ガール」「ゴーリー・ワウ」「ストップ、ルック、リッスン」「ユー・アー・
エヴリシング」を立て続けに大ヒットさせる。「ゴーリー・ワウ」は後にプリンスがカバー
している。「ユー・アー・エヴリシング」は、1973年にダイアナ・ロスとマーヴィン・ゲイの
デュエットでカバーされて大ヒットした。




























石川 さゆり(1958年生まれの57歳)は、熊本県出身の日本の演歌歌手。
本名・石川 絹代(きぬよ)。堀越高等学校卒業。
1973年「かくれんぼ」でアイドル歌手として日本コロムビアよりデビュー。
キャッチフレーズは“コロムビア・プリンセス”だった。しかしデビューから暫くは
「花の中三トリオ」などの影に隠れて、大きな人気を得るには至らなかった。
1977年に「津軽海峡・冬景色」が大ヒットとなり、第19回日本レコード大賞歌唱賞など、
数々の音楽賞を受賞した。また同1977年発売の「能登半島」「暖流」もヒット、
1980年代に入ってからも「波止場しぐれ」「天城越え」「夫婦善哉」「滝の白糸」
「風の盆恋歌」など順調にヒット曲を世に送り出し、日本を代表する女性演歌歌手の
一人となった。『NHK紅白歌合戦』には、現在通算37回出場している。






日本の夏休みに入り、ワイキキやビーチ、ショッピングセンターも家族連れの観光客で
賑わう8月。
いつもと違う、みんなと違うハワイ旅行を!と思っている人は、さまざまなイベントに参加
してみるのがおススメです。
ローカルと一緒に過ごすハワイを、夏休みの思い出に!
◆19世紀後半(明治時代)、当時さとうきび産業が最盛期を迎えていたハワイに労働者
として移民してきた日本の人々。
遠く離れた故郷に思いをはせて始まった盆踊りが、いつしかハワイの夏の風物詩
「ボンダンス」となりました。
ボンダンスのシーズンは、6月下旬から8月。
毎週末どこかしらの寺院で開催されており、焼きそばやシェイブアイスなどの屋台も
登場します。
昭和の香りがする、とてもレトロなボンダンス。
開催スケジュールは、地元新聞のウェブサイトに掲載されるので、要チェックです!
<ホノルルで開催されるボンダンス>
■NICHIREN MISSION OF HAWAII(日蓮宗ハワイ) 8月22日(土)18:00~
会場:33 Pulelehua Way.
TEL:808-595-3517
■THE KAPAHULU CENTER(カパフルセンター) 8月22日(土)18:00~22:00
※キッズ向けゲーム、フードブースは16:00~
会場:3410 Campbell Ave.
TEL:808-737-1748
◆アドミッション・デー 2015年8月21日(金)
1959年にハワイ州が誕生して56年。
1959年はアラモアナセンターがオープンした年でもあります
8月第3金曜は、ハワイがアメリカ合衆国の50番目の州となった州制記念日で、
ハワイ州が定める祝日。
1795年にカメハメハ一世が建国してから、約100年続いたハワイ王国。
1893年に白人が起こしたクーデターによって、当時の女王リリウオカラニの王位が
剥奪され崩壊しました。
その後、1898年にアメリカの領土として併合されましたが、正式に州となったのは
1959年8月21日です。
アドミッション・デー当日、ショッピングセンターは通常営業です。
◆メイド・イン・ハワイ・フェスティバル 2015年8月21日(金)~23日(日)
マカデミアナッツ、コーヒー、チョコレート、クッキーなどの特産物や加工食品、ファッション、
ジュエリー、植物、アートといったメイド・イン・ハワイの商品が集結。
有名レストランのシェフによる料理のデモンストレーションやハワイのトップ・ミュージシャン
によるエンターテイメントも行われるビッグイベントです。
<詳細>
■MADE IN HAWAII FESTIVAL(メイド・イン・ハワイ・フェスティバル)
開催日:8月中旬金~日曜 金・土曜10:00~21:00、日曜10:00~17:00
会場:777 Ward Ave. ニール・ブレイズデル・センター エキシビジョンホール&アリーナ
アクセス:ワイキキ・クヒオ通り山側バス停からザ・バス2・13番利用
TEL:808-533-1292
料金:5ドル、6才以下無料
◆デュークス・オーシャンフェスト 2015年8月22日(土)~30日(日)
デューク像周辺のカラカウア通りとワイキキビーチで開催。
ワイキキビーチを背にして建つ像、デューク・カハナモクの誕生日(24日)を祝い開催される
フェスティバル。
デュークは、ハワイ初のオリンピック金メダリストであり、サーフィンの父と呼ばれ、
ライフガードでもあったハワイの英雄です。
祝賀イベントやサーフ大会、1つのサーフボードにカップルが乗って優雅なポーズや技術を
競うタンデムサーフ大会などたくさんのイベントが行われます。
<詳細>
■DUKE`S OCEAN FEST(デュークス・オーシャンフェスト)
開催日:8月下旬土曜から9日間 ※イベントスケジュールは、ウェブサイト参照
会場:ワイキキ カラカウア通りほか
TEL:808-545-4880
エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(Erik Alfred Leslie Satie、1866年 - 1925年)は、
フランスの作曲家である。
サティは「音楽界の異端児」「音楽界の変わり者」と称され、西洋音楽に大きな影響を
与えたと見なされており、ドビュッシー、ラヴェルも「その多くの作曲技法はサティによって
決定づけられたものだ」と公言している。そして、印象主義の作曲家たちにも影響を与え
たとされる。
パリ音楽院在学中にピアノ小品『オジーヴ』『ジムノペディ』『グノシエンヌ』などを発表。
カフェ・コンセール『黒猫』に集う芸術家の1人となり、コクトーやピカソと交流。
バレエ・リュスのために『パラード』を作曲。またカフェ・コンセールのためのいくつかの
声楽曲を書く。今日よく知られている『ジュ・トゥ・ヴー』はこの時の曲。薔薇十字教団と
関係し、いくつかの小品を書く。同一音形を繰り返す手法を用いた『ヴェクサシオン』
『家具の音楽』なども書いた。
堀内 孝雄(1949年生れの65歳)は、日本の歌手、作曲家、俳優、タレント。
アリスのメンバー。愛称は「ベーヤン」。大阪市出身。大衆食堂を営む家の3人
兄弟の末っ子として生まれる。京都産業大学中退。
1971年に谷村新司と堀内孝雄が矢沢透が合流することを前提に「アリス」を結成。
翌1972年、シングル「走っておいで恋人よ」でデビュー。同年に矢沢が正式に合流し、
晴れて現在のアリスとなる。「遠くで汽笛を聞きながら」「冬の稲妻」「ジョニーの子守唄」
「夢去りし街角」「秋止符」など、数々の曲を生み出した。
その傍らでソロ歌手としても活動、「君のひとみは10000ボルト」や、滝ともはるとの
デュエット曲「南回帰線」などを大ヒットさせている。アリス活動停止後はソロ歌手として、
ニューアダルトミュージック、そして演歌・歌謡曲路線に転向後、「愛しき日々」、
「恋唄綴り」、「影法師」など数々のヒット曲を出した。歌手活動のほかにも作曲家として
楽曲の提供や俳優・タレントとしても活躍している。
堀口 大學(1892年(明治25年)1月8日 - 1981年(昭和56年)3月15日)は、
明治から昭和にかけての詩人、歌人、フランス文学者。訳詩書は三百点を超え、
日本の近代詩に多大な影響を与えた。雅号は十三日月。葉山町名誉町民。




















河瀬 直美(1969年生まれの46歳)は、日本の映画監督。奈良県出身・在住。
大阪写真専門学校卒業後、同校の講師を務めながら、1997年、初の35mm作品であると
同時に最初の商業作品として制作された『萌の朱雀』にて、第50回カンヌ国際映画祭
カメラ・ドール(新人監督賞)を史上最年少(27歳)で受賞。また芸術選奨新人賞受賞。
その直後に同作品のプロデューサーを務めた仙頭武則と結婚し、活動も「仙頭直美」
名義となったが、のちに離婚したことにより姓を河瀬に戻した。再婚後の2004年に
第一子(長男)を出産。
2015年、フランス芸術文化勲章シュヴァリエ章を、日本人女性映画監督として初めて受章。
同年、『あん』が第68回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門のオープニング作品に決まる。
ダリル・ホールと、ジョン・オーツの2人組で、1972年にデビューした。
1970年代中盤に「サラ・スマイル」が全米ヒットとなり、その後も「リッチ・ガール」
「イッツ・ア・ラーフ」「ウェイト・フォー・ミー」などヒットを連発した。1980年代以降も、
R&Bやソウルのテイストを取り入れたポップスで人気を博した。
彼らは、ブルー・アイド・ソウルと呼ばれるジャンルで最も成功したアーティストの
一つである。1985年に行なわれたライヴエイドに出演。長年憧れ、また友人でも
あった元テンプテーションズのエディ・ケンドリックス、デヴィッド・ラフィンと共演している。
その後、1991年に活動停止したが、1995年に活動再開を果たした。現在は互いに
プロデューサーとしても精力的に活動を続けており、日本での人気が特に高い。
ホール・アンド・オーツの略称でも知られる。ちなみに、ベストヒットUSA最多登場の
二人でもある。また、全米トップ10入りした楽曲(16曲)の内半数(7曲)はダリルの
元恋人であるサラ・アレンとその妹ジャンナ・アレン(1993年に白血病で亡くなっている)との
共作である。
2014年にロックの殿堂入りを果たした。
家族写真
作詞 松井五郎 作曲 森山良子 編曲 信長貴富
庭を埋めた紫陽花
つかのまの陽が注ぐ
父の膝はまだ
幼い妹のもの
母よりも背が伸びた
兄が少しはにかむ
傾いたカメラ
笑い声も写した
※明日へ向かうほど
近くなる昨日がある
忘れないで 思い出は
どこにもいかない※
猫が眠る縁側
風の音が戯れる
母が手をいれた
わたしの髪が可笑しい
ひとるの屋根の下で
喧嘩したり泣いたり
それでも最後は
夕御飯を囲んだ
変わらないところに
帰ってゆける場所がある
忘れないで ぬくもりは
どこにもいかない
一枚の写真から
季節は数を重ね
新しい家族
もうすぐ生まれてきます
だけど父の匂いも
母のあたたかい手も
大事なすべては
あの時代に覚えた
(※くり返し)
忘れないで ぬくもりは
どこにもいかない
伊藤 みどり(1969年生まれの46歳)は、日本のフィギュアスケート選手(女子シングル)。
愛知県名古屋市出身。東海学園女子短期大学卒業。
1992年アルベールビルオリンピックフィギュアスケート女子シングル銀メダリスト。
1989年世界選手権優勝。1985年から1992年まで全日本選手権8連覇。女子選手として世界
初の3回転アクセルや3回転-3回転連続ジャンプに成功した。
1989年に「もっとも高得点をとったフィギュアスケーター」としてギネスブックに掲載。2004年には、
日本人として初めて世界フィギュアスケート殿堂入り。2007年、国際スケート連盟 (ISU) は
「伊藤はたった一人の力で女子フィギュアスケートを21世紀へと導いた」との声明を発表した。
藤 あや子(1961年生まれの54歳)は、日本の演歌歌手、作曲家。
1961年、秋田県出身。小学4年生の時から民謡を習い、高校卒業後には就職したものの、
職を変えながら民謡歌手として地元で活動していた。また、秋田県が主催したミスコンテスト
『ミス花嫁コンテスト』で優勝した。
1985年には、テレビ番組 『勝ち抜き歌謡天国』(NHK)に出演して優勝している。
1987年、CBSソニーから村勢真奈美の芸名で、「ふたり川」(作詞: 石本美由起、作曲:船村徹)で
テビューした。
1989年、藤あや子に芸名を変え、「おんな」(作詞: 荒川利夫、作曲: 叶弦大)で再デビュー。
1992年、「こころ酒」が大ヒットし、第25回日本有線大賞を受賞。また同年の第43回NHK
紅白歌合戦に初出場を果たす。























浜崎 あゆみ(1978年生まれの37歳)は、日本の女性歌手、元女優、モデル。
本名は濱﨑 歩(読み同じ)。愛称はあゆ、ayu。ロゴマークのAは本人のイニシャルを
組み合わせたもの。福岡県福岡市出身。
1998年4月8日に1stシングル「poker face」でソロ歌手としてデビュー。歌手デビュー後の
楽曲については、オリジナル曲は全て自身で作詞し、「CREA」名義でいくつか作曲も
手がけている。楽曲のみならず衣装、ミュージックビデオ、雑誌グラビア、CDジャケットの
レイアウトやライブ演出といったビジュアルアートに至るまで、本人による徹底した非常に
厳しいチェックを行っている。
2012年発売のベストアルバム『A SUMMER BEST』のリリースによりシングル・アルバムの
総売上枚数が5000万枚を突破、B'z、Mr.Childrenに続き、史上3組目、5年5か月ぶりの
記録を達成。総売上枚数が5000万枚を越えたのはソロアーティスト並びに女性アーティスト
としては史上初の快挙であった。
















ジェームス三木(本名:山下 清泉(やました きよもと)、1935年生まれの80歳)は、
日本の脚本家、作家、演出家、元歌手。
高校2年の時、演劇部で自ら主演・演出した芝居が大阪府高校演劇コンクールで1位入賞。
これを期に俳優志望となり、俳優座養成所の入所試験を受けたところ、12倍の競争率を
突破して合格。1953年、3年生の5月に高校を中退して上京し、第5期生として俳優座養成所に入所。
その後テイチクの専属歌手となり、ディック・ミネや三波春夫の前座を務めまた石原裕次郎
『錆びたナイフ』のテスト録音を行っている。
テイチクで地方巡業など歌手として13年間の下積み生活を送る。その間、大学入学資格検定に
合格する。
1968年30歳で、処女作『アダムの星』で第18回新人映画シナリオコンクールに準入選を果たす。
この作品が映画監督・野村芳太郎の目にとまり、ナイトクラブ歌手と二足の草鞋を履きながら
野村に師事。
34歳のときに映画『夕月』で脚本家としてデビュー。
菅原 小春(すがわら こはる、1992年生まれの23歳)は、日本のダンサー、振り付け師であり、
韓国女性アイドルグループ・2NE1の振り付けも担当している。10歳の頃からダンスを始め、
10代の時にDANCE ATTACKやSHONEN CHAMPLEなどの様々なコンテストで優勝している。
2010年にロサンゼルスに渡り、独自のダンススタイルを生み出す。
星槎国際高等学校(VAW栄光ハイスクール)卒業。国内外を問わず様々なアーティストとのもとで
振り付け、またはバックダンサーを行なっている。特に2NE1のFalling in Loveはその中でもヒット
した作品である。現在は日本を拠点にヨーロッパ、アジアなど世界各国でもダンスを教えるなど、
世界的なブランドの広告やファッション雑誌にも登場している。ダンサーとして2013年にNIKEと
コラボしその後 NIKE ATHLETEのキャンペーンの中にも登場している。


















V6(ブイシックス)は、日本の男性アイドルグループ。メンバー
メンバー
坂本昌行(さかもと まさゆき、1971年生まれの44歳・東京都出身)
長野博(ながの ひろし、 1972年生まれの43歳・神奈川県出身)
井ノ原快彦(いのはら よしひこ、1976年生まれの39歳・東京都出身)
森田剛(もりた ごう、1979年生まれの36歳・埼玉県出身)
三宅健(みやけ けん、1979年生まれの36歳・神奈川県出身)
岡田准一(おかだ じゅんいち、1980年生まれの35歳・大阪府出身)
年長組3人を「20th Century(トゥエンティース・センチュリー)」(通称:トニセン、TC))、
年少組3人を「Coming Century(カミング・センチュリー)」(通称:カミセン、CC)として、
独立した活動も行っている。 V6の「V」には、バレーボール、ビクトリー、バーサス、
ベテランなどの意味が存在する。
また、中国語名では「勝利六人組」という表記をされている。
野呂 一生(のろ いっせい、1957年生まれの57歳 )は、日本を代表するフュージョンバンド、
カシオペアのギタリストで、同バンドのリーダー。また、カシオペアの曲の大半を作曲している。
東京都出身。
1月1日に生まれたために“一生”と名付けられる。中学時代にフォークギターを手にし、高校
在学中はハードロックに傾倒して、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジのロック界
三大ギタリストの演奏をコピーし、アマチュアながら都内では天才ギタリスト野呂一生の名が次第
に知られはじめる。明星大学に進学するものの、ほとんど教室に通うことなく部室でギターの練習
に明け暮れる。結局、大学は一年で中退。その後しばらくギターの修行一辺倒に励み、ジョー・パス
らジャズギターの名手を手本として、ロックに留まらない特有の奏法を独学でマスター。この間、
中山ラビのバックバンド、大冒険のメンバーになるなどしてセミプロとしてキャリアもスタートさせる。
2009年より"ISSEI NORO INSPIRITS"としてのセカンド・アルバム『Moments』のレコーディング開始、
同年12月にリリースした。また、カシオペアのオリジナル・メンバーの櫻井哲夫と共にデビュー30周年
記念としてアコースティック・ディオ、"PEGASUS"を始動。全国各地を廻る精力的なライブツアーを繰り
広げる。そして、2010年2月にライヴ・アルバムをリリース予定とし、アルバム・デビューする。