山川 豊(1958年生れの58歳)は、日本の演歌歌手。1981年に「函館本線」にてデビュー。
同年の新人賞を受賞した。鳥羽一郎の実弟。
父は漁師、母は海女という漁業一家に生まれた。1981年に「函館本線」にてデビュー。
同年デビューの近藤真彦などと新人賞争いを繰り広げ多数の新人賞を受賞。1986年には
NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。現在まで11回の出場を果たしている。
高校を卒業後、職業訓練学校を経て、自動車の整備士として、地元三重の鈴鹿サーキットで
勤務していた時期がある。
ボクシングが趣味。






















宇多田 ヒカルは、日本の音楽家。愛称はヒッキー(Hikki)。
1998年デビュー。1stアルバム『First Love』は累計売上枚数765万枚を超え、日本国内の
歴代アルバムセールス1位になっているほか、2ndアルバム『Distance』では初週売上枚
数が歴代1位となる300万枚を記録している。また、2007年発表の「Flavor Of Life」は当時
のデジタル・シングルのセールスにおいて世界1位を記録した。『日本ゴールドディスク大賞』
「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」を2度受賞しているほか、『First Love』『Distance』『DEEP
RIVER』『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.1』の4作品がオリコン年間アルバム
チャート1位になっている。
2010年に「人間活動」として翌年以降の活動休止を発表、2016年にアーティスト活動を
再開した。
1983年1月19日、アメリカ合衆国のニューヨークにおいて父宇多田照實と母藤圭子のもとに
生まれる。
2003年に紀里谷和明と結婚し、2007年に離婚を発表。2014年にイタリア人男性と再婚し、
2015年7月に第1子となる男児を出産したことを報告した。
宮川 泰(みやがわ ひろし、1931年 - 2006年)は、日本の作曲家・編曲家・
ピアニスト・タレントである。
和製ポップスの開拓者の一人であり、1960年代のスター、ザ・ピーナッツの
育ての親として数々のヒット曲を輩出し、他歌手にも楽曲を提供するなど、
日本ポップス界に大きな足跡を残した。
また巨泉×前武ゲバゲバ90分!、宇宙戦艦ヤマト、ズームイン!!朝!、午後は○○
おもいッきりテレビなどテレビ音楽にも多数の作品を提供。
ジャズの感覚を生かした軽妙ながらインパクトのある「宮川節」と称される音楽は、
時間の短いTV番組のオープニングに重用された。
「マツケンサンバII」で有名になった作曲家・編曲家の宮川彬良(本名:晶)は長男。
ライチャス・ブラザーズ (The Righteous Brothers) は、アメリカ合衆国のデュオ。
いわゆるブルー・アイド・ソウルの代表格で、1960年代に「ふられた気持」や
「ひき潮」「アンチェインド・メロディ」などのヒット曲で有名。2003年に、ロックの殿堂
入りを果たした。
ビル・メドレーとボビー・ハットフィールドの2人から成るデュオで、1962年に結成され、
1963年にデビュー。その後、フィル・スペクターが設立した『フィルズ・レコード』に移籍し、
1964年に「ふられた気持(You've Lost That Lovin' Feelin')」が全米1位を記録。
1965年には「アンチェインド・メロディ(Unchained Melody)」が全米4位となる。
1966年、今度は『ヴァーヴ・レコード』に移籍し、そこでも「ソウル・アンド・インスピレー
ション(Soul And Inspiration)」を全米1位に送り込む等、ヒットを放つが、やがてビルが
独立し、勢いを失って解散状態となる。1974年に再結成され、「Rock And Roll Heaven」を
ヒットさせるが、その後しばらく、第一線に出ることはなかった。






9月のハワイは、ハワイ最大の食の祭典、ハワイ・フード&ワイン・フェスティバルで
スタート。
そして、フラやハワイアンミュージックなどハワイの魅力を一度に体験できる州最大の
祭り、アロハ・フェスティバルが開幕します。
◆ホノルルセンチュリーライド 2016年9月25日(日)
ハワイで最も歴史のあるアマチュアツーリング大会。
ワイキキからダイヤモンドヘッド、サンデービーチ、カイルアなど、オアフ東部の海岸線を
自転車で走行。
20~100マイルまでの5コースで構成されるファンライドです。
■HONOLULU CENTURY RIDE(ホノルルセンチュリーライド)
開催日:9月下旬日曜9:00スタート
会場:100マイルコース カピオラニ公園~カネオヘ湾の先、スワンジー・ビーチを折り返し
TEL:日本受付事務局 0120-711-951
料金:日本でのエントリー 大人17500円、14歳以下3500円(2015年9月5日まで)
中尾 ミエ(1946年生れの70歳)は、日本の女性歌手、女優。
本名 中尾 美禰子(なかお みねこ)。北九州市出身。
1961年に渡辺プロと契約。園まり・伊東ゆかりらとスパーク3人娘を結成。
ザ・ピーナッツの後継として期待され、クレージーキャッツ主演の『シャボン
玉ホリデー』などに出演し、一時代を築く。確かな歌唱力で、人気を博し、
アメリカンポップス系を得意とする。
16歳にしてリリースした『可愛いベイビー』が大ヒット。一躍スターの座に。
20歳の若さで都内に一軒家を購入して両親へプレゼントした。その後、
両親の家の隣へ中尾の自宅を建てて現在もその場所で生活しており、
自宅の隣には自己所有のアパートを建てて大家でもある。
三木 たかし(1945年 - 2009年) は、日本の作曲家。本名は渡邊 匡。
歌手・女優の黛ジュン(本名: 渡邊順子)は実妹にあたる。
1960年代半ばごろに歌手を志して作曲家の船村徹に弟子入りするも、
船村から「君は作曲家の方が向いている」と言われ方向転換する。
1967年、当時の売れっ子作詞家であったなかにし礼の推薦を受け、
「恋はハートで」で作曲家デビューを果たす。
2006年、下咽頭がんで声帯の一部を切除、その後声を失ってしまう。
2009年岡山県岡山市の病院に於いてその生涯を閉じ。64歳没。
『男はつらいよ』は、渥美清主演、山田洋次原作・監督のテレビドラマおよび映画である。
テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が、何かの拍子に故郷の葛飾柴又
に戻ってきては何かと大騒動を起こす人情喜劇シリーズ。毎回旅先で出会った「マドンナ」
に惚れつつも、失恋するか身を引くかして成就しない寅次郎の恋愛模様を、日本各地の
美しい風景を背景に描く。主人公の名前から、作品自体も「寅さん」と呼ばれることがある。





























永尾 嘉章(ながお よしふみ、1963年生れの53歳)は、兵庫県出身の日本の
車いす陸上競技選手 。神戸市役所職員。
短距離選手としてパラリンピック6大会連続出場を果たした、車いす陸上界の
パイオニア。2012年まで自己記録の更新をし続けるなど、メディアからは『超人』
『ラストサムライ』などと言われている。アテネパラリンピック選手団主将を務め、
400×4mで自身初、リレー初の銅メダルを獲得。パラリンピック車いす陸上選手
最多出場選手で、T54クラスという層の厚いクラスで、すべての大会において
決勝進出を果たしている。
5歳でポリオ(小児麻痺)を発症、その後車いす陸上を始めた。1980年栃木国体に
100m、スラロームで出場し、その一方で1982年から車いすバスケットボールを始め、
1990年ゴールドカップ(ベルギー)の日本代表選手としての出場を果たした。
しかしこれを最後に車いすバスケットボールを引退し、陸上競技に専念することと
なった。1991年にソウルパラリンピック、スラローム金メダリストの伊藤由美と結婚した。























海 誠(1973年生れの43歳)は、日本のアニメーション作家・映画監督。本名は新津 誠。
長野県小海町に出生。実家は代々建設会社を営んでおり、父親は株式会社新津組の社長。
中央大学文学部在籍中にアルバイトとして日本ファルコムに従事し、大学卒業後の1995年
に正式に入社。同社のパソコンゲーム『英雄伝説 ガガーブトリロジー』『イースIIエターナル』
などのオープニングムービーを制作する傍らで自主制作アニメーションを制作し、1998年に
『遠い世界』でeAT'98にて特別賞を、2000年に『彼女と彼女の猫』でプロジェクトチームDoGA
主催の第12回CGアニメコンテストでグランプリを獲得した。2000年頃に日本ファルコムを退社し、
現在コミックス・ウェーブ・フィルムに所属。






























さだ まさし(本名:佐田 雅志、1952年生れの64歳)は、日本のシンガーソング
ライター、タレント、小説家。
フォークデュオのグレープでメジャーデビュー。「精霊流し」のヒットにより全国にその
名を知られるようになった。ソロシンガーになってからも「雨やどり」「関白宣言」
「親父の一番長い日」「北の国から〜遥かなる大地より〜」など、数々のヒット曲を
生み出す。
小説家としても活動し、『解夏』『眉山』などの作品を発表している。
國學院大學法学部中退。趣味はゴルフ。1983年に結婚し、一男一女の父である。
弟はさだ企画社長で「日本人初のプロサッカー選手」の佐田繁理。妹は歌手の
佐田玲子。長男はユニット「TSUKEMEN」のメンバーとして2010年にメジャーデビュー
したヴァイオリニスト・TAIRIKUこと佐田大陸。長女は2011年にメジャーデビューした
ピアノ・デュオ「Pretty Bach」のメンバーでゴスペラーズ・北山陽一の妻・詠夢

























節政 健一(セツマサ ケンイチ)。宮崎県延岡市在住。1988年生れの28歳。
日本体育連盟公認水泳指導員 日本水泳連盟公認OWS指導員
5歳から水泳を始め中学時代は 競泳選手として全国中学、国体に出場。20歳の時に
テレビの企画で津軽海峡横断リレーを見ていつか自分も津軽海峡を泳ぐことを決意し
OWS競技を 始める。 そして24歳になった2012年9月8日に念願の津軽海峡単独横断
に成功。 それまでの横断記録を2時間以上更新し、7時間30分の当時の世界最速記
録で完泳。 津軽海峡は、オーシャンズセブンの一つに認定されておりその中でも最
高難易の 海峡とされその中で最も成功者が少ない。
ドーバー海峡横断にも挑戦したが途中でリタイアした。
普段は地元の延岡市で一般企業の会社員だが、休日などを利用してボランティアで
延岡市内の小中高学校で水泳の訪問指導も行っている。 また九州で唯一の日本水
泳連盟公認OWS指導員として九州のOWS普及活動を行うなど選手としてだけでな
く多方面に亘り水泳指導にも携わっている。


















吉田 拓郎(1946年生れの70歳)は、日本のシンガーソングライター、作詞家、作曲家、
編曲家、音楽プロデューサー、フォーライフレコードの第2代社長である。本名同じ。
夫人は四角佳子→浅田美代子→森下愛子。
日本のシンガーソングライターの草分け的存在であり、1970年代初頭、マイナーであった
フォークとロックを、日本ポップス界のメジャーに引き上げた歌手である。また、大規模
ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、CMソング、コンサートツアー、プロデューサー、
レコード会社設立などのパイオニアとして、日本ポピュラーミュージック史において特筆
すべき役割を果たした。日外アソシエーツ『ポピュラー音楽人名事典』は、「ニューミュー
ジックを代表する音楽家」と掲載している。2000年2月号の日経エンタテインメント!の
特集「J-POPの歴史をつくった100人」で、“J-POPの開祖”と記される。
有馬稲子(1932年生れの84歳)は、日本の女優。本名:中西 盛子。大阪府出身。
1948年、宝塚音楽学校に入学する。1949年、宝塚歌劇団36期生として宝塚歌劇団に
入団、二代目有馬稲子を襲名する。宝塚入団時の成績は63人中9位。在団期間は
短かったが、主演娘役として活躍した。在団中の1951年、東宝『寳塚夫人』で映画
デビューする。元々、宝塚在団中から新劇のファンであり、映画への誘いに抵抗が
なかったという。同年7月、映画『せきれいの曲』で初主演する。宝塚歌劇団の最終
出演公演の演目は花組公演『巴里の騎士/かぐや姫』である。
1961年、俳優の中村錦之助(萬屋錦之介)と結婚式を挙げる。
結婚から約3年7ヶ月後に離婚する。1969年には実業家の河村三郎と再婚するも、
1983年に離婚する。なお、河村いずれとの間にも子はなかった。
2013年、宝塚大劇場で開催された「宝塚音楽学校創立100周年記念式典 百年
(ももとせ)の道〜いま新しき未来へ〜」に、八千草薫、天海祐希、檀れい達と共に
出席した。
小林 克也(1941年生れの75歳)は、日本のラジオDJ、ナレーター、タレント、
俳優である。広島県福山市出身。慶應義塾大学経済学部中退。DJ第一人者。
自称「ミスター音楽」。愛称はKORBY(コービー)。
英語に熱中し、将来は英語を活かす仕事をすると決めていた。このため、大学
受験では慶應義塾大学経済学部に入学。慶應義塾大学在学中に運輸省の
通訳案内業国家試験に合格し外国人相手の観光ガイドのアルバイトを始めるも、
こちらに精を出し過ぎ、好きな英語でも経済学の英語原書には全く興味を持てず、
大学を中退。外国人相手のナイトクラブなどの司会を本業とした。1970年、
『バブリング・ポップス』のDJで電波デビュー。この番組はワーナー・パイオニアの
新譜を紹介する番組で、その英語力と、素晴らしい声質を活かし、一気にラジオ界
の寵児となる。
現在でもラジオDJとしてレギュラー番組を多数抱え、リスナーに絶大な支持を受けている。
高橋 幸宏(1952年生れの64歳)は、日本のミュージシャン。
高校在学中からスタジオ・ミュージシャンとして活動。サディスティック・ミカ・バンドや
イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のメンバーとしての活動が有名。その他、
鈴木慶一と共に結成した「ビートニクス」、細野晴臣とのユニット、スケッチ・ショウと
しての活動を始め、様々なミュージシャンとのコラボレーションやプロデュースも手掛
けている。山本耀司のパリ・コレ出展の際の音楽を担当したり、椎名誠監督の映画の
音楽監督を務めたこともある。近年は自身の体調などの関係から、披露される機会が
少なくなったが、本職はドラマーである。その厳格なまでに正確なリズムと少ない音数
で多彩な表現を可能とする独特のタイトな演奏は、特にYMO世代のミュージシャン達
から高くリスペクトされている。
クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(Creedence Clearwater Revival、
略称CCR)は、アメリカのバンド。カリフォルニア州サンフランシスコ出身であるが、
アメリカ南部の音楽性やサウンドを取り入れた、サザン・ロック・スワンプ・ロックの
先駆者的存在だった「近年では、オルタナティブ・ロックの開祖とも」。活動期間は
短いながらもロック界足跡を残し、1993年にはロックの殿堂入りを果たした。
「ローリング・ストーン誌が選ぶ歴史上最も偉大な100組のグループ」において第82位。














藤原 さくら(1995年生れの21歳)は、日本のシンガーソングライター。
高校1年生の時、本気で音楽に取り組むべく福岡のボーカルスクールVOATに入る。
すぐに受けることになったオーディションで課題としてオリジナル曲が3曲必要になり、
初めて曲を作る。
高校時代、カフェやライブハウスで地道な音楽活動を続け、3枚のミニアルバム
(bloom1、bloom2、bloom3)をリリース。ライブ会場や福岡市内のCDショップで販売された。
現在は完売している。3年生の時に1stスタジオ・アルバム『full bloom』を作り上げる。
2014年には初のワンマンライブ「bloom & green」を東京と福岡で開催。『full bloom』を持って
いる人限定の無料招待ライブだった。2015年には、SPEEDSTAR RECORDSよりミニアルバム
『à la carte』でメジャーデビューを果たした。
2016年4月期のテレビドラマ『ラヴソング』で佐野さくら役として女優デビューを果たし、
劇中では事務所の先輩である福山雅治の相手役に起用され、「soup」が主題歌として
採用される。
オリコンが主催する第4回「コンフィデンスアワード・ドラマ賞」で、『ラヴソング』での演技が
評価され、新人賞を受賞する。









桐谷 健太(1980年生れの36歳)は、日本の俳優、歌手。大阪府出身。
駒澤大学進学を機に上京。在学時に俳優養成所『アクターズクリニック』を卒業。
2002年、テレビドラマ『九龍で会いましょう』の山崎ケン役で俳優デビュー。
2003年、映画『ゲロッパ!』の晴彦役でスクリーンデビュー。
2007年、映画『GROW 愚郎』の村上敦役で映画初主演。
2008年、テレビドラマ『ROOKIES』に平塚平役で出演。知名度を高める。
2009年、初舞台『恋と革命』の村雲武彦役で舞台初主演。
2011年、第35回『エランドール賞』新人賞を受賞。
2013年、テレビドラマ『父の花、咲く春〜岐阜・長良川幇間物語〜』の辻次郎役で
テレビドラマ初主演。
2013年、主演テレビドラマ『Y・O・U やまびこ音楽同好会』の主題歌『喜びの歌』で
『河野勇作(桐谷健太)×THE イナズマ戦隊』としてCDデビュー。
2014年、一般女性と婚姻、さらに夫人が妊娠中であることを公式ブログにて発表。
同年、第1子誕生。
2016年、第2子誕生を報告。
同年9月28日、アルバム『香音-KANON-』をリリース。本人名義の初CD作品となる。

















水曜日のカンパネラは、日本のJ-POP、ヒップホップユニット。
知り合いの映像作家のホームパーティーに来ていたコムアイをDir.Fが「歌わないか」と
誘ったことをきっかけに結成。
2013年よりDir.Fに言われてやむなくライヴ活動を開始、同年5月に『クロールと逆上が
り』を、10月には『羅生門』をリリース。
2015年、日清カレーメシとのタイアップにて製作された『ラー』のMVをリリース。水曜日の
カンパネラと「日清カレーメシ」の世界観が通じているということで両者が意気投合。
新しいカタチのタイアップを目指し、このミュージックビデオでコラボレーションを果たした。
コムアイ、1992年(24歳)生まれ。 本名・輿美咲(こし みさき)。神奈川県出身。慶應義塾
大学環境情報学部卒業。父はアメフト解説者で富士通フロンティアーズ副部長の輿亮。
強みは鹿の解体、弱みは起床(低血圧)。趣味は落語鑑賞、映画鑑賞、消されそうな
ツイートのスクショを撮ること。プロレス観戦。アーティスト名はTwitterのアカウントをその
まま使ったもので、本名の名字と名前の頭文字の「コ」と「ミ」をアルファベットにした「KOMI」
にアンダーバーを入れて「KOM_I(コムアイ)」になった。水曜日のカンパネラ結成前は音楽
活動は一切行っておらず、自分では普通に社会人になると思っていた。
宮城 まり子(本名:本目 眞理子(ほんめ まりこ)、1927年生れの89歳)は、日本の
歌手・女優・映画監督・福祉事業家。東京都名誉都民。
戦時中の1944年、宮城千鶴子の芸名で15歳で大阪花月劇場にて初舞台を踏む。
その後、自らの一座を率いて九州を巡業し、終戦を迎える。戦後の1948年、父親、弟の
八郎と上京、浅草の舞台に立つ。1953年、レコードで歌った『毒消しゃいらんかね』が
流行し一躍歌手としてその名が知れ渡った。1955年には、後のレコード大賞作詞家・
宮川哲夫の手による『ガード下の靴みがき』も大ヒットした。その後も『納豆うりの唄』
『てんてん娘』『夕刊小僧』などヒットを連発。弟八郎は宮城秀雄の名前で作曲家として
活躍した。
1968年に肢体不自由児の社会福祉施設「ねむの木学園」を設立。この頃より、タレント
活動は事実上引退状態となる。
塩沼 亮潤(しおぬま りょうじゅん、1968年生れの48歳)は、宮城県仙台市出身の
日本の金峯山修験本宗の僧侶。大峯千日回峰行者。
1968年、宮城県仙台市の仙台駅側に生まれる。TVで酒井雄哉師を観て千日回峰行に
憧れる。1986年に東北高等学校卒業後、資金を貯めて翌1987年に金峯山修験本宗管
長五條順教に師事して総本山金峯山寺で出家。修験行院に入る。2年後に正行院に入り、
更に2年後に大行院に入る。
1991年の戸開けより、百日回峰行 (大峯)に入る。8月10日に達成。翌1992年5月3日から
千日回峰行に入る。1999年9月2日に金峯山史上2人目[1]となる千日回峰行を達成。
翌2000年9月28日から四無行を満行、2006年には八千枚大護摩供を満行した。
その後、帰郷して慈眼寺を建立、住職となる。


































小室 哲哉(1958年生れの58歳)は、日本のミュージシャンで、音楽プロデューサー。
東京都府中市出身。元尚美学園大学芸術情報学部教授。妻はglobeのボーカルのkco。
3歳からヴァイオリンのレッスンを始めて、音感のベースを学ぶ。小学生の頃から既に
クラシックのインストゥルメンタルの楽曲を作っていた。小学5年生、母がエレクトーンを購入。
これが鍵盤楽器との出会いとなる。母より先にコードを覚えた。
早稲田大学社会科学部に進学し、在学中にプロ・ミュージシャンとしての活動を開始する。
その後、音楽活動に没頭し、授業料を楽器代に使い廻していた為に単位が取れず除籍となる。
1994年から、観月ありさ、篠原涼子、trf、hitomi、内田有紀、H Jungle with t、dos、globe、
華原朋美、安室奈美恵など、多数の作詞、作曲、編曲と音楽プロデュースを兼任して行った。
1994年から1999年の間に数々のミリオンセラーやヒット曲を打ち立て、各メディアにおいて
「小室ファミリー」、「小室サウンド」、「小室系」といった名称でカテゴライズされる少年時代
からの夢だった小室ブームという社会現象を起こした。
ハワイの音楽は、ハワイで演奏される伝統的なハワイ民族音楽や、ハワイアン・
ポップスを指す。
ハワイ民族音楽は、ハワイの伝統文化の主要な要素である。先住ハワイ民族は
何世紀もハワイ諸島に居住し、伝統音楽の文化を開花させた。発祥としては宗教的な
意味合いも大きく、チャンティング(吟じる)やダンス音楽を多く含む。ハワイの音楽は
ポリネシアの音楽界全体に大きな影響を与え、民族音楽評論家のピーター・マニュ
エルによると、ハワイ音楽による影響はポリネシア文化を通しての一大特徴であるとし
ている。
人口の少ない地域の割に、島外への影響は少なくない。ウクレレやスラックキーギター
等の奏法は世界的に有名で、またハワイアン風の音楽はハリウッド映画のサウンド
トラックでよく使用されている。またハワイアンをきっかけに、アメリカ合衆国のカントリー・
ミュージックへスチールギターが導入された。
吉行 和子(本名 同じ、1935年生れの81歳)は、東京都出身の女優、
エッセイスト、俳人。
父は作家の吉行エイスケ、母は美容師の吉行あぐり。兄は作家の吉行淳之介、
妹は詩人の吉行理恵。私生活では結婚・離婚を経験、子供はなし。
1954年に女子学院高等学校を卒業する。在学中の同年に劇団民藝付属水品
研究所に入所。体が弱かったこともあり、女優になるつもりはなく、衣装係にでも
なれればと思って受験したところ、思いがけず女優候補として採用された。
テレビドラマでは『3年B組金八先生』や『ふぞろいの林檎たち』『ナースのお仕事』
等で有名。
文筆の世界では、1983年にエッセイ集『どこまで演れば気がすむの』を出版し、
1984年の第32回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。2000年の母の日に贈った
五行歌は「朝日新聞」で大きく紹介された。
| ホーム |