



















日本最初の集団移民となったのは、1868年(明治元年)横浜を出港した
イギリス船籍の「サイオト号」に乗った153人であった。この移民は、
ハワイ政府の強い要請に基づいて準備されていたが、移民許可を出した
徳川幕府が瓦解し、明治新政府はこの移民を認めなかったため、無断で出港
してしまうという事態であった。
ハワイ政府は1864年、移住民局を設置し、労働力不足を解決するため外国
からの労働力を導入しようとしていた。しかし、それまでの外国人労働力として
受け入れていた中国人に対しては、アメリカで中国人排斥運動が起きていたこと
もあって、中国人の代わりとして日本人移民の導入を計画していたのだ。
労働力導入だけにとどまらず、ハワイアンと同じ非白人種の日本人をハワイ社会
に同化させ、そのことによってハワイ人の人口増加をも期待していたようだ。
徳川幕府はハワイとの通商条約の締結もないまま、幕府は350名の渡航許可と
180名分の印章(旅券)の交付を行った。
そうした期待の中で、彼らは二十数人ずつに分けられて、プランテーションに
就労することになった。現実はそんなに甘くなかったようだ。炎天下の耕作地での
1日10時間以上もの労働は過酷をきわめた。何ヵ月もしないうちに、
彼らの中から不満の声が上がり始め、生活習慣が異なり、しかも言葉が全く分から
ないという不慣れな生活環境のなかで、ストレスが急速に蓄積されていったことも
あったようだ。実は、後に元年者と言われるようになる彼らの多くは、農業の経験
が全くない、都市生活者であったのだ。
元年者の移民はスタート最初からトラブルが続き、その対策に苦慮した明治政府は
海外への移民については慎重な態度をとるようになったのだ。
明治政府は、この後、20年近くにわたって、海外移住を許さず、その代わりとして
北海道開拓を推進するようになった。
しかし、ハワイ側から見ると、日本人移民に対する評価はけっして下がってはいな
かった。むしろ、ますます日本人移民を必要とするように感じていた。それが後の
官約移民へとつながっていく。
その後1871年、日本ハワイ修好条約が結ばれ、バンリードは条約締結に奔走した
功績が認められ、日本政府の公認のもと、正式なハワイ総領事に就任することになった。
1885年から10年間で約21万人の日本人がハワイに渡り、さとうきび栽培に従事
したことになる。
日系移民はその勤勉さからハワイ経済発展の一翼を担ったといっても過言ではない。
アロハシャツも日本の着物がルーツと言う説もある。
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