



川畑文子(かわばた・ふみこ)は1916年ハワイ生まれの日系3世。
3歳でロスに移住し、13歳で歌と踊りでデビュー、33年の初来日以来、
日本にて数多くのポピュラー・ソングをSP盤にて発売した女性歌手。
日本のポップス黎明期にあたる1933年、歌にダンスに大活躍したティーン・アイドル
であったのだ。
岡山県からの移民を父に、ハワイ生まれの日系二世を母にハワイで生まれた文子は、
12歳でダンス学校に入学するとめきめきと上達し、13歳には早くも興行会社RKOの
専属ジャズ・ダンサーとしてプロ・デビューした。
当初はお忍びのつもりで日本へ来たが、米国での文子の活躍ぶりは日本にも伝わって
いて、レコード会社や興行会社は彼女をめぐって激しい争奪合戦をくり広げた。結局、
獲得にもっとも熱心だったコロムビアと専属契約を結ぶことになった。
コロムビアはさっそく翌年2月、東京劇場で「コロムビア専属芸術家川畑文子帰朝公演」
を開催。和製ジャズ・ソングのパイオニアのひとり天野喜久代、高田せい子の高田舞踊団、
ジョージ堀の堀タップ・ダンス・チームが全面的にバックアップした。
文子は、靴先を自分の頭より高く上げる得意技“ハイキック”を含むアクロバティックな
モダン・ダンスのみならず、タップ・ダンス、バレエ、スパニッシュ・ダンスなど、幅広い
レパートリーをこなし、そのいずれにおいても抜きん出た力量を披露した。
テイチクには34曲吹き込まれていて、これらのうち13曲が『川畑文子・ベティ稲田と
仲間たち』(テイチク TECW-28770)にCD復刻されている。瀬川昌久さんの著書「ジャズ
に踊って」(清流出版)によると、コロムビア時代よりもジャズ色が薄らいでハワイアン調の
曲や編曲が主になっているという。
つまり日本のハワイアンソングのパイオニアとも言うべきか。
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