



ルイ・ジョーダン(Louis Jordan、1908年-1975年)はアメリカ合衆国の歌手、
サックス奏者。ビッグバンド・ジャズとブルースの要素を合わせ持つ音楽、ジャンプ・
ブルースの代表的ミュージシャン。1940年代から1950年代初頭にかけて、
多くの曲をヒットさせた。
R&B(リズム&ブルース)の生みの親でもある。
アーカンソー州生まれ。チック・ウェブ楽団で活動し、名を広めていく。なお、ジャズ・
ボーカリストのエラ・フィッツジェラルドも、ルイと同時期にチック・ウェブ楽団に
在籍していた。1938年、チックに解雇されたのを機に独立し、デッカ・レコードと契約。
1942年、「ホワット・ザ・ユース・オブ・ゲッティン・ソバー」を『ビルボード』誌の
R&Bチャート1位に送り込む。1944年には、「G.I.ジャイヴ」がR&Bチャートとポップ・
チャートの両方で1位を獲得。1945年、ビング・クロスビーとのデュエット
「マイ・ベイビー・セッド・イエス」がポップ・チャートで14位を記録。1946年には、
エラ・フィッツジェラルドとのデュエット「ストーン・デッド・イン・ザ・マーケット」
がR&Bチャート1位となり、更に「チュー・チュー・チ・ブギ」が18週連続でR&Bチャート1位を記録。
また、やはり1946年にヒットした「エイント・ザット・ジャスト・ライク・ア・ウーマン」は、
後のロックンロールに通じるイントロで始まり、チャック・ベリーの楽曲「ジョニー・B.グッド」
のヒントになったとも言われる[1]。
デッカ・レコードからは18曲をR&Bチャート1位に送り込むが、1952年以降は大ヒットに
恵まれず、1954年にデッカを離れる。
その後は、マーキュリー・レコードなど様々なレーベルに録音を残す。1956年に発表した、
自分のヒット曲の再演アルバム『サムバディ・アップ・ゼア・ディグス・ミー』は、クインシー・
ジョーンズがプロデュースしたことで知られる。1975年67歳で没。
スポンサーサイト