








“ブルースの父”と呼ばれているW.C.ハンディ - William Christopher Handy
が1914年(40歳)に作った曲で、作詞も本人。
サッチモことルイ・アームスロングをはじめ、多くの人に多様なアレンジで演奏され、
世に出てから1世紀になろうとする現在も世界中の人々に愛されている音楽。
現在アメリカ第2の国歌とも言われている。
またこの曲は、いろいろな作曲家にも影響を与え、ジョージ・ガーシュインの
『ラプソティ・イン・ブルー』はこの曲をヒントに作られたとしている。
この曲は、長い放浪生活の中で、さまざまな黒人労働歌や黒人霊歌を耳にし、
楽譜に書き写してきたハンディが「人生で一番つらかった」というセントルイスでの
生活と、その時に施しを受けていた黒人娼婦の呟きから生まれた歌と言われている。
ハンディは、初めてブルースを楽譜にして出版したりレコーディングを行った。
そして、ブルースを世界中に広めた功労者として、“ブルースの父”と呼ばれている。
つまり黒人奴隷の唯一の楽しみから生み出されたのが
ブルースだったのだ。
彼は1873年南部のアラバマ州フローレンス生まれる。
牧師だった父は彼を教師にしようと文字を教え、教会の手伝いとして賛美歌を演奏させる
ために楽譜の読み書きを教えた。しかし毎日のようにオルガンを演奏したハンディは、
音楽への想いが強くなる。ハンディが大きくなってからは、音楽で生計を立てることを嫌い、
意見が対立。ハンディはトランペットを持って家を出る。
〝黒人ミンストレル・ショーに参加して以来、プロの音楽家となり、大編成のパレード
バンドの指揮者にもなった。
ミンストラル・ショーとは、黒人に扮した白人の司会者と芸人たちが演じる、おどけた対話
と歌曲、舞踏からなるミュージカル演芸で南部を演奏して回る。
その後、友人とブラスバンドを結成し、放浪生活をする。その間に、各地で出会った、
労働歌や黒人霊歌を楽譜に書き写していた。後に、これらがブルースの元となる。
セントルイスにたどり着いたときに、遂に一文無しになっていた。人生で一番辛い時期で、
橋の下で野宿をしながらいろいろな人に施しを受けていた。その頃お世話になった黒人娼婦
の呟きと、各地で黒人達が歌っていた歌が『セントルイス・ブルース』の元となったのだ。
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テーマ:自分に力をくれるもの - ジャンル:音楽